子ども理解に徹する教育活動のあり方について

前回の記事(noteだと前々回の記事)で、「子ども理解とは何か」ということについて書きました。そこでは、学力至上主義と指導至上主義という立場を超えて、子ども理解に徹する立場に立って教育活動に取り組むことを提案しました。しかし、学力至上主義や指導至上主義の問題については指摘したものの、肝心の子ども理解に徹する教育活動のあり方については、イメージを紹介するにとどまっていて、説明が不十分なところがあったように思います。そのため、今回の記事では、子ども理解に徹する教育活動のあり方とはどのようなあり方なのかを、もう少し詳しく書いてみようと思います。なお、今回は、ソフトな文体で書くことを目指して、試験的に「です、ます」調で書いてみようと思います。

子どもを出発点にする

子ども理解に徹する教育活動のあり方の核は、「子どもを出発点にする」という点にあります。それに対して、指導によって子どもに力をつけることを至上目的とする指導至上主義は、「教える側を出発点にする」あり方を選ぶ傾向にあります。もちろん、子どもに力をつけることを至上目的としながら、子どもを出発点にすることも可能ですが、指導至上主義の立場をとると、指導に関係のある子どもの姿を出発点にしてしまいがちです。それでは、子どものパーソナルな(人格的な)部分は見えません。そのため、本当に子ども理解に徹するのであれば、指導の視点は一旦カッコに入れて子どもをみる必要があるように思います。

教師と子どもの関わりの(1)(2)(3)

子ども理解に徹する立場で教育活動を行うということは、(1)という状態にある子どもに対して、教師が(2)という働きかけをすることで、子どもを(1)を含み込んだ(3)に変容させることです。指導至上主義の立場で教育活動を行うと、(1)という状態にある子どもに対して、教師が(2)という働きかけをすることで、子どもを(1)の痕跡が残らない(2)'へと変えてしまいます。
このままだと説明が抽象的なので、(1)(2)(3)に言葉を加えて、さらに詳しく説明してみましょう。子ども理解に徹する立場で説明すると、教師の子どもとの関わりは、(1)子どもたちのあり方や考え方がまずそこにあり、それに対して、(2)教師の価値観にもとづく働きかけがあり、(1)(2)がぶつかりあった(教師の働きかけがあった)ことで、(3)子どものありようが変わるという過程として描けるかと思います。この際に重要なのが、必ずはじめに(1)があることと、(3)の中に(1)の痕跡があることです。(2)で(1)を塗り潰すことで、(1)が(2)'になってしまうことが、指導至上主義の問題です。指導至上主義の立場で説明すると、教師の子どもとの関わりは、(1)子どもたちのあり方や考え方がまずそこにあるはずなのだが、それが理解されず、(2)教師の指導目標にもとづいて、目標に到達するための手立てが徹底されることで、子どもが(2)'指導目標を身につけるという過程として描けるかと思います。そこでは、そもそも子どもたちが最初どのような状態であったか(1)は、考慮されないか、あるいは、(2)の視点に即して考慮されるかのどちらかで、結局、子どもたちが(1)を含み込む(3)へと成長する道を提供することができず、(2)を身につけた(2)'を量産することになってしまいます。
(1)の子どもが(2)'になってしまうことは、子どもが学力至上主義に悩まされることよりも深刻な問題ではないか。これが、前回の記事を通して、私が言いたかったことです。そのため、学力至上主義よりももっと根源的な問題として指導至上主義を位置づけ、それを乗り越えた立場として、子ども理解に徹する立場を打ち立てたのでした。

子ども理解に徹する立場と指導至上主義の違い

子ども理解に徹する立場では、子どもが出発点にあり、そこに教師の価値観をぶつけて調整するので、教師の価値観が子どもに影響を与えることはあっても、子どもの価値観は尊重されます。それに対して、指導至上主義は、教師の指導が出発点にあり、その出発点を軸にして子どもとの関係が調整されるため、最終的に子どもの価値観は尊重されません。
指導至上主義の立場で「教える側を出発点にする」と、教師の定めたゴールに子どもを向かわせることになります。そのため、子どもがどんな反応をしたとしても、到達目標は変わることがありません。このように、到達目標が外から決められてしまうことで、子どもにとっての学ぶことの意義が失われてしまいます。一方で、子ども理解に徹する立場で「子どもを出発点にする」と、到達目標が子どもの実態に応じて変わっていきます。

学習指導要領との距離感は関係がない

このように言うと、それでは、子どもたちの多様な目標に振り回されて授業が成立しなくなるのではないかと思われるかもしれません。しかし、そうではないと私は考えます。授業の大きな流れは、変更する必要がありません。授業の細部は、子どもたちの反応や理解の仕方によって、修正されたり、変更されたりしますが、授業の大きな目標(◯◯の心情に迫る、◯◯を書く、◯◯の考え方を知る、etc...)は変える必要がありません。学習指導要領の目標をそのまま使用しても良いですし、指導書の授業の流れをそのまま使用しても良いのです。私は、学習指導要領の大綱的基準説[兼子仁『教育法[新版]』有斐閣、1978年]を支持しているので、学習指導要領の目標や指導書の授業の流れに対して、自分の解釈を加えてよりよい方法を考案しても良いし、代替になるような授業案を自分でつくっても良いと考えています。つまり、学習指導要領に対してどんなスタンスをとろうとも、指導至上主義に陥らずに、子ども理解に徹する立場で授業をつくることは可能だということです。話を戻すと、子ども理解に徹する立場で授業を行っても、授業自体の大きな流れや目標は変わりません。それを子どもたちがどう受け取り、どう解釈して、どこに到達するのかが変わるのです。

大切なのは解釈や意味づけ

では、どうすればそのような授業になるのか。これまでの記事を読んで、「でも、たとえば、算数などでは、解き方は決まっていて、授業の到達目標と子どもたちの到達目標は一致しているから、そこを分けて考えることはできないのではないか」といったような疑問が出てくるかもしれません。たしかにそうです。授業の到達目標を、算数の問題の解き方を覚えるということや、歴史的な事実を知るということにしてしまうと、授業の到達目標と子どもたちの到達目標を分けて考えることができません。そのため、算数の問題の解き方や歴史的な事実のような、答えが一つに決まっているようなものは、先に情報を提供してしまえばいいのです。(もちろん、歴史的な事実というのも、多様な解釈があるので、厳密には答えが一つに決まっているとは言い難いですが、ここでは、「◯年に◯◯ということが起こって、◯◯になった」という現時点では定説とされていて、そこを前提にしないと考察が始まらないようなものを想定して、歴史的な事実と言っています。)教員の世界では、算数の問題の解き方について、もうすでに一つの決まりきった方法があるのに、わざわざそれをパッと教えずに、みんなでじっくり考えて、最後にその解き方に到達するように工夫するのが算数の良い授業だと考えられているようなところがありますが、私はこの考えは完全に間違っていると思います。なぜなら、算数の本当の面白さは、その解き方を知る段階にあるのではなく、その解き方を使うことの意味を考えたり、なぜその解き方になるのかを考えたりするところにあるからです。解き方に到達するまでの段階で、わざわざ子どもたちをじらして無駄に時間を使わずに、解き方自体は教えてしまい、その解き方を使うことの意味を考えたり、なぜその解き方になるのかを考えたりすることに時間を使った方が良いと私は考えます。このように、解き方があらかじめ決まっている算数であっても、その解き方を使うことの意味を考えたり、なぜその解き方になるのかを考えたりすることを目標として立てれば、子どもたちに到達目標を押しつけなくてよくなります。子どもたちは、もともと自分の持っている価値観にもとづいて、算数と対峙し、それぞれの解釈にもとづいて、授業で提供された算数というものを意味づけていくのです。当然、算数の解き方を身につけなければ、解釈や意味づけという段階に到達できないので、算数の解き方を身につけることを強制されているではないかと指摘されるかもしれません。それに対しては、子どもの自由を尊重するラディカルな立場をとるのであれば、そもそも算数の解き方を身につけるかどうかの決定も子ども自身に委ねられていると応答することもできます。一方、子どもに学力を身につけさせることを重視する穏健な立場をとるのであれば、算数の解き方を身につけることは強制することになるかもしれないが、その知識をどのように生かすか、生かさないかということの判断は子どもに委ねられていると応答することができます。後者の立場をとる場合、算数の解き方を身につけることを強制する段階で過剰な負担がかかってしまう子どもに対しては、何かしらの配慮が必要になってくるでしょう。たとえば、解き方を身につけることについては、その子に合った最低限のレベルでよいということにして、その子に対しては、たとえ問題が解けなくても、算数の考え方を楽しむということに重きを置いた関わり方をするということになるかもしれません。そのあたりは、子どもの実態に応じて様々な対応があると思いますが、いずれにしても、子ども理解に徹する立場で授業を行ううえで重要なのは、授業の到達目標と子どもの到達目標は分けて考えることです。

評価について

このように言うと、必ず「では、評価はどうすればいいのか」という質問をされますが、評価は、その解釈の深さにもとづいてするか、解き方が身についているかどうかをもとに行うか、どちからにすれば良いです。解釈の深さにもとづいて行うのは、直接的に学びの過程を評価する方法です。授業で学んだことを話させたり書かせたりすることで評価ができます。どのような文脈に結びつけるかは子どもによって異なりますが、どの程度文脈に結びつけられているかという観点で評価すれば、同じ評価基準で全員を評価することができます。一方で、解き方が身についているかどうかで評価するというのは、より深い学びをすれば基礎的な解き方の段階についても理解が深まっているはずだという想定のもとで評価をするやり方です。解き方の理解度をデータとして、間接的に学びの過程を評価します。私は、評価において最も重要なのは、1,2,3,4,5や◎,◯,△のような通知表の段階に表されるものではなく、所見に言葉で表されるような具体的な姿であると考えているので、通知表の段階評価については、後者の間接的に学びの過程を評価する方法でつけてしまっても良いと考えていますが、厳密な評価を重要視するのであれば、前者の直接的に学びの過程を評価する方法を採用した方が良いように思います。いずれにせよ、子ども理解に徹する立場で授業を行っても、適切な評価はできるといえるように思います。

まとめ

最後に、この記事で書いたことをまとめて終わりにします。
まず、子ども理解に徹する立場の核は、「子どもを出発点にする」という点にあるということを確認しました。そして、子ども理解に徹する立場で教師が子どもと関わる過程は、次のように描くことができることを確認しました。(1)子どもたちのあり方や考え方がまずそこにあり、それに対して、(2)教師の価値観にもとづく働きかけがあり、(1)(2)がぶつかりあった(教師の働きかけがあった)ことで、(3)子どものありようが変わるという過程。一方で、指導至上主義の立場で教師が子どもと関わる過程を描くと、次のようになることを確認しました。(1)子どもたちのあり方や考え方がまずそこにあるはずなのだが、それが理解されず、(2)教師の指導目標にもとづいて、目標に到達するための手立てが徹底されることで、子どもが(2)'指導目標を身につけるという過程。この二つの過程を描き出すことで、(1)の子どもが(2)'になってしまうことは、子どもが学力至上主義に悩まされることよりも深刻な問題ではないかとする問題提起を行いました。
次に、子ども理解に徹する立場で授業を行うと、子どもたちの到達目標が変わっていきますが、一方で、授業の到達目標は変えなくても良いということを確認しました。その中で明らかになったことは、学習指導要領に対してどのようなスタンスをとるにしても、子ども理解に徹する立場で授業を行うことは可能だということでした。
最後に、子ども理解に徹する立場で授業を行った場合の評価について確認しました。子ども理解に徹する立場で授業を行った場合の評価の仕方には、二つの方法があることを紹介しました。それは、解釈の深さにもとづいて評価を行う直接的に学びの過程を評価する方法と、解き方の理解度をデータとして間接的に学びの過程を評価する方法です。ここでは、後者の間接的に学びの過程を評価する方法を採用してしまっても良いが、厳密な評価を重要視するのであれば、前者の直接的に学びの過程を評価する方法を採用した方が良いということを確認しました。
私は、この記事で紹介したような子ども理解に徹する立場で教育活動を行う教師は、日本全国の中でも5%程度なのではないかと考えています。なぜなら、ほとんどの教師は、教育課程(カリキュラム)を出発点にして、教育課程(カリキュラム)に子どもを合わせさせる授業をしているからです。学習指導要領が法的拘束力をもつ書物として位置づけられ、教育課程(カリキュラム)から外れていると思われてしまうと保護者の方からも苦情を受けるような時代では、それも致し方ないのかもしれません。教育課程(カリキュラム)からあまりに逸脱すると、周りの教師や教育委員会から苦情を受けることもあるように思います。しかし、本当に子どもたちにとって有意義な学びを求めるなら、子ども理解に徹する立場で教育活動に取り組むべきだと私は考えます。教育課程(カリキュラム)の路線にある程度は乗ることで、保護者の方や同僚の教員、教育委員会といった様々な方面からの苦情をかわしつつも、子どもを出発点にするという子ども理解に徹する立場の核を見失わずに日本全国の中での5%として活躍することが、今の教師には求められると私は考えています。険しい道のりではあると思いますが、日本全国の中での5%が少しずつ膨らんでいき、10%、20%、30%と広がっていくと、日本の教育の未来も少しずつ明るくなっていくように思います。

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