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降りそそぐ光のカーテン

 薄く覆っている雲の切れ間から幾筋もの光が放たれ、照らされたその湖面だけを乳光色に輝かせている。
「あの光をなんというか知ってる?」
 湖面を見つめ続ける二人の間を流れゆく沈黙のなか、シズルが口を開いた。
「うん。エンジェルス・ステェアーでしょ? ……エンジェルス・ラダーかな、天使の梯子」
「その方がロマンチックでいいね」
「別な呼び方があるの?」
「光芒。薄明光線」
「確かに、つまんない」
「だよね」
「舞台に降りそそぐライトのよう。光のカーテン」
「いいね。幸せを降りそそぐ光のカーテン」
「……ありがとう」
 コズエの表情にすっとまた翳りが掠める。

 コズエが、海外からのオファーに有頂天になって喜んでいられたのは、渡米前までだった。
 日本にいる間に脚本は送られてきていた。コズエは、そのセリフの少なさ、シーンの多さに驚かされた。舞台演劇と映像演劇の違いにあらためて感じ入った。そのおかげもあって、セリフをインプットするのにそれほど苦労をしなかった。
 俳優の駆け出しであるにもかかわらず、現場で臨機応変に加工、修正しながら自分の演技を仕上げていければいいなどと軽く考えていた。福岡公演での成功体験が大きく心理的に影響を与えていたのだろう。
 ロサンジェルスに渡ってすぐに監督はじめ映画関係者と面会し、制作スタッフに紹介された。それから連日のように晴れがましいパーティーや厳かなセレモニーに出席させられ、緊張と気後れで自己アピールするどころの騒ぎではなかった。
 海外にも『妻として、詩友として』の舞台公演はネット公開されていて、観てくれている人が多かった。俳優陣や撮影スタッフだけでなく、撮影所の関係者のなかにも幾人もいた。
 撮影がスタートし、いざ撮影所やロケ地へ出向く段になって初めて事の重大さを思い知らされた。緊張と不安が覆いかぶさってきて、吐きそうな毎日だった。
 悪戦苦闘の日々。そして、苦悩の連続。
 映画監督が求めてくるレベルは高かった。コズエの日本での演技への評価がかえってコズエを苦しめた。コズエはそれに応えることができなかった。
「自然な歓喜の演技を求められているのに、どうしてもその表情、声が出せなかった。なんどやってもダメで、スタート時の監督の燃えるような熱いまなざしが、他を圧倒するような強いパワーと輝きが次第に失われていくのがわかった。消えていくのがはっきり見てとれた。
 自分の力量のなさを心底思い知らされた。監督の期待に応える能力がない。演者としての未熟さが白日にさらされた瞬間だった。
 ――君が創り出す表情には哀しみが隠れている。そんな影はいらない。僕が求めているのは、抜けるような歓喜の表情なんだ。相手の心をわしづかみし、引きずり込むような歓喜の表情なんだ。ほかの余計な感情を想起させるような色調はいらない。
 監督のその言葉は、自分には死の宣告に等しかった。もうおまえはいらない。おまえにこの役を演じる資格がない、能力がないと言われているように思えた。
 自分でも認めざるをえなかった。打ちのめされ、惨憺たる思いだった。再度監督の前で同じシーンを演じ、観てもらおうという気力が湧かなかった。
 なんどやっても同じこと。同じ演技しかできないのは火を見るより明らかだったから」
「…………………」
 シズルには、いまのコズエにかけてやる言葉が浮かばなかった。
「マネージャーに事の次第を簡単に説明して、事後処理一切任せて、単身帰国してきちゃった」
「監督からの連絡は?」
「ない。納得してくれたんだと思う。仕方ない結果だと彼も考えたんだと思う」
 辛酸を嘗め尽くしての挫折、帰国という、コズエの想いもしない結末になってしまった。

 シズカがコズエの足元に寄ってきて坐った。そして、なにもかもを包み込むような柔和なまなざしをコズエに向け、ゆっくり尾を振っている。
 シズルは、そんなシズカのしぐさになにかを感じて、そっと頭を優しく撫でてやった。

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