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霊妙なるもの

 都内のある大学病院の消化器科に入院している妻。
 末期すい臓がんで、余命いくばくもないと告げられている。
 
 陽当たりのよい暖かい病室で、妻は夫との思い出話に声を弾ませている。
「あのころが一番幸せだった」
 妻は心からそう思っているようだ。
「そうかもしれないね」
 夫は深く考えもせず、共感の言葉を口にする。
「憶えてる?」
「なにを?」
「二人がつき合い始めてまだ間もない頃のこと」
 当時のことをつぶさに思い出そうとして、彼女はちょっと口を噤んだ。そしてとても晴れやかな笑顔と穏やかな笑い声を漏らした。
 つい先ほどまで激しい痛みを訴えていた同じ人とは思えない。
「子どもだったんだよね。……いまじゃあ、とってもできない」
「なんの話?」
「ほら、わたしがあなたのアパートにお泊りしに行ったときのことよ」
「うん」
「わたしたちアパートの外階段の下の水場でからだを洗ったのよ。信じられない」
「ああ、憶えてる。よくできたよね」
「あなたが誘ったのよ」
「田舎者だったんだよ、俺。田舎じゃそんなの当たり前だったから。その感覚だったんだよな。いまじゃとてもできないけど」
「あなたのこと丸っきり信じ切っていたから。なんの迷いもなかった。恥ずかしいという気持ちもなかったのよね。まるで幼児よね」
 ふふっと妻は嬉しそうに笑った。
「他人の眼が気にならなかった。アパートの敷地は塀で囲われていたけど、すぐ上には隣のアパートの二階部屋の窓があったんだからね。暗かったけどしっかり見られていたかも」
「見られていたよ、きっと。ホント信じられない。あんな洗い場で真っ裸になって行水浴びるなんて」
「銭湯が休みだったんだよな、あの日。あんまり君が気持ち悪い、気持ち悪いと言うもんだから」
「わたしのせい?」
「そうだよ。汗かいてて」
「いまならできないよ、絶対」
「だよね」
 彼女はまた明るく笑った。
 
 夫はいまも、妻に対する自分の冷酷な態度を悔いていた。結婚して四、五年経っていた頃のことだ。
 ――なぜ彼女の話を真剣に聞こうとしなかったんだろう。
 仕事から帰って、着替えて、風呂に入り、ビールを飲みながら晩飯を食べる、その一番リラックスできる時間に切り出されたのでたぶんいらついたのだろう。
 ――俺は自分のことしか考えていなかった。
 その日彼は六時過ぎに帰宅した。いつも通りの同じ時刻だ。職場を定時の五時にあがり、どこにも寄らずに家路についた。当時、一人勤務の職場ゆえに同僚とどこかに寄り道してくるなどということはなかった。
「職場の同僚とうまくいっていないんだ」
 妻は暗い顔をしてそう口火を切った。
 彼女も食卓につき、しばらく食べ進めていたときだ。職場でいじめの対象になっていることを告白し始めた。
「なんで?」
 昨日までまったくそんな様子がなかったので、彼には寝耳に水のことだった。
「最近なんかわたしに対して同僚の物言いや態度が冷淡だなあ、と感じていたんだけど、今日はっきりした。たまたま同僚ふたりがわたしの悪口を言うのを通路で聞いちゃったんだ。そのひとりとは同期でいままで一番親しくしていたから信じられなくて」
「以前うちに遊びに来た人かな、その人」
「そう。あまりのショックで目の前が真っ暗になっちゃった。陰で悪口なんか言わずに直接言ってくれればいいのに、と軽く笑いながら言うつもりだったんだけど、つい涙声になっちゃって。もう一人の人ともそう仲が悪い方ではなかったんだけどね。急にそんな悪口言われるようになってしまっちゃって。これからどうしたらいいのかな」
 詳しく話を聞かなければ、その対応についてアドバイスもできない。だが彼はそれを聞くことを避けたかった。リラックスしているところに愉快でないそんな重い話は勘弁してもらいたかった。
「いま聞かなければいけないのかな、その話」
「あっ、ごめん」
 彼女はびっくりしたような表情を浮かべた。
「聞きたくなければいいよ」
 ちょっとの間の後吐き捨てるようにそう言うと、あまり箸をつけていない食器を持って席を立った。彼女がキッチンで洗いものをしている間も、そしてその後も、彼はテレビのニュース番組を観ながらひとりでビールを飲んでいた。
 翌朝も妻の顔は冴えない感じだった。送り出されるときにはなにも言わなかったが、帰宅したらすぐに「昨夜は悪かった。今日はちゃんと話を聞くよ」と詫びるつもりでいた。ところが彼が帰宅し家のドアを開けると、なかは真っ暗で、いつもの迎え入れる声がない。いやな胸騒ぎが起こった。照明をつけてリビングに入ると、すぐにテーブルの上の白い紙が目に留まった。「しばらく実家に帰っています」とだけ書き記されていた。
 あのとき、夫は妻から離婚を持ち出されていてもおかしくはなかった。
 妻は母親に相談するために実家へ帰ったのじゃないだろうか。
 数日後には妻は帰宅し、なにごともなかったかのように彼との生活を続けた。
 前夫との離婚の危機をいくども潜り抜けてきた経験から、母親は彼女に思いとどまるように、我慢強くならなければならない、したたかにならなければならないと諭したのかもしれない。
 妻の悩みごとの方も自然消滅していった。
 
 明るく夫との思い出話を口にしていた日からそう日を経ない午後、妻は大量の緑色の吐しゃ物を残して逝ってしまった。
 彼はいまだに、当日付き添ってくれていた妹からのメールを消去できないでいる。三月二十七日当日の朝から死去するまで職場の机に向かっていた。
 午前九時三十七分――昨日夜大量に吐いたそうです。これからからだを拭いて着替えさせてくれるとのこと。あまり良くなかったらしい。いまは昨夜より落ち着いていると言われた。
 目を閉じると、脳裏に無言のまま明るく笑いかけてくる妻の顔が浮かんだ。想定外のことにどきりとはしたが、すぐに冷ややかに、妻の姿は不吉な胸騒ぎが見せつける幻なんだと結論づけていた。また霊界など信じないし、ましてや見守られているなどという信心もない、と。
 午後一時四十二分――時々無呼吸が三十秒くらい。眉間に皺は寄せていないが、辛そうな様子。来れないの?
 このメールを受けた直後、彼はどうすべきか迷って確かこんなメールを送った記憶がある。
「声掛けに反応はある?」
 一時四十七分――ない。また吐きそうになったが、薬が効いてきたのかおさまった様子。
 このメールを読んで、ちょっと安心できた。三時には同僚が出勤してくるはずだったので、それから車を飛ばしていけばいいだろうと考えたのだ。
 姉に電話で妻の状態が芳しくないことを報告して仕事に戻った。それから一時間もしないうちに再び目の前の携帯電話が鳴った。
 彼のなかに、信じていないはずの神仏の影が走った。思わず手を合わせている自分が確かにいた。
 二時二十三分――時間がない
 焦って文字を打ち込んでいるところに、妹からのメールが先に飛び込んできた。
 二時二十六分――たったいま亡くなりました
 携帯画面に映し出された文字を見詰めたまま身動きできなかった。
 四時すぎに病室に飛び込んだとき妹と最初に目が合った。彼女の眼は真っ赤だった。
 妻は真っ白なシーツの上に長い黒髪を乱れるままに乱し、微笑むように微かに唇を開き、瞼には乾燥した目やにがしっかりこびりついていた。
 
 通夜の日の深夜、彼がひとりで遺体が置かれた葬儀場の小部屋にいるとき、妻がなんの前触れもなくふいに喪服姿で目の前に現れた。ゆっくりと棺の前に腰を下ろし、彼を見つめて無言のまま明るく笑いかける。
 ――この世のなかに霊妙なものなど存在しやしない。出会いも、縁が深まるのも絶たれるのも偶発的なこと。霊妙なものなどに影響を及ぼされもしない……。
 彼はコップにビールを注ぎ足すと一気に飲み干した。そして目を転じると、もう妻の姿は消えていた。

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