福田翁随想録(28)

 老後をどう生きるか

 老後はどうやって暮らしていくのかと思い惑われる方が多い。趣味でもと思い立ってもすぐに身につけられるものではない。  
 大食漢で酒たばこ好き。若い時の私は面白くもない男とされていたようだ。ただ文章を書いたり、絵画や美術工芸品などを見たりするのは好きだった。といっても、それらは新聞記者だったから趣味とは言えない。 
 新聞記者から民間放送という別世界に転ずると、経営難からがむしゃらに相手かまわず売り込むことに精を出さざるをえなかった。代理店筋からは厄介視されていたようだが、本人は分からないからおめでたくできていた。
 乱暴、不摂生がたたって腰痛で入院。車椅子でなければ動けない逆境に転落した。そのおかげで私は絵を描くチャンスを与えられた。
「病縁」というのか、お見舞いに頂いたバラを見た途端、バラの命がどん底の私の命に放電してくれて活力が与えられた。まさに目からウロコが落ちた。じっとしておれなくてすぐ娘の使い古しの画材を取り寄せ、油絵や水彩など手あたり次第に好き勝手に描きまくった。 
 当時描いた飯田橋の病院からの落日風景画などを見ると、家並みが低く、走る自動車も少ない。昭和三十七年の風俗だが、先ごろ近くを通ると病院は建て直され、道路を走る車は洪水のような流れだった。 
 翌年アメリカを視察した時にはカメラで撮影するよりスケッチに夢中だった。稚拙なところがかえって嬉しい。他人の真似をしたり、上手に描いてやろうなどと高望みせず、自分流が一番いいのではないだろうか。 
 四十二年に『ヨーロッパ印象旅行』(雪華社)を出版したが、表紙をローマのコロシアム画にし、本文中にも絵をたくさん挿入した。この頃からようやく海外旅行の制約がとれ、欧米への観光客が多くなってきていた。おかげで本の方も思った以上に好評で版を重ね、また日本各地の素人画家とも知り合いになれたのは望外の収穫だった。
 帰国した後、盛岡本社に転じた。そして、陶芸を始めることになる。岩手は古来南部鉄瓶で伝統工芸を誇ってきたけれども、茶碗がないことに気づいたのがきっかけだった。
 だが、周りに陶芸を教える人も道具もなかった。鍋の木蓋に雨戸の車を三個取り付け中心に釘を差しただけの簡単な手作り轆轤(ろくろ)を作った。それでも立派に機能を果たしてくれた。昭和四十年前は名古屋のメーカーでさえ電気轆轤で生産していなかった時代だ。材料の粘土は市内のレンガ工場から分けてもらった。
 県工業試験場の電気炉を記者時代の顔で使わせてもらった。頻繁に出入りするので公器を使うのはどうかとの横やりが入ったが、高邁な理想のつもりなので知人と語らって「県産品創作委員会」を立ち上げ、非難をかわした。そのうち楽焼きだけでは満足できなくなり、レンガ工場に頼み込んで本焼きに挑戦し始めた。
 県内出張時には長靴やスコップを用意し、切通しやトンネル工事を見つけるとその場の土を袋に詰めて持ち帰り、粘土材料とした。当時私は県が提唱する地下資源開発に協力して試し焼きの標本づくりもした。
 遠野市郊外の掘立小屋で独り陶芸づくりをしている若者がいることを知り、訪ねてみると、今まで見たこともない壷や茶碗が無造作に土間に転がっているではないか。私はすぐさま街に戻って食料品を買い集め、捨てるように転がしてある半端物と交換した。 
 この陶芸家が加守田章二(かもだしょうじ)氏だと知り、亡くなるまで親交を続けた。
 今日彼の模索し作陶した作品は、県伝統工芸の参考品棚に並んでいるはずである。

 東京に移ってからも陶芸は続け、岩手や多治見の陶人に托して焼いているが、高齢になるにつれ菊揉みや轆轤回しも身体がついていかなくなってきた。
 この焼き物に手を染めた経緯は日本経済新聞文化欄に大きく取り上げられた(1968・11・20)。「愉快なり、にわか芸術家。入院中に始めた油絵がもとで」の大見出しだった。
 その末尾を私はこう結んでいる。
「要は充実した『独り楽しむ境地』に住することではあるまいか。仕事から離れたら老け込むというのは、もう笑うべき俗説にしたい」 

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