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ささやかな嘘なれど

 嘘なら嘘でいい、嘘の方がかえっていいということもあるんじゃないか。嘘とわからないままの方がいい結果を招くということだってあるんじゃないか。
 と、木戸真琴は考えている。
 嘘=悪しきことという単純な話ではなくて、輝きを放ち続ける、心を突き揺さぶる嘘というものが、この世の中には人知れずいっぱい埋もれているんじゃないだろうか。
 木戸はそういうポテンシャルを秘めた嘘に触れたい、知りたいと思っている。そのためならどんな辺鄙な、たどり着くのも困難なところへでも飛んでいきたいくらいの熱い情念を抱いている。
「お前にそんな素養があるのか。薄っぺらな、貧弱な感性しか持ち合わせていないお前に、どうしてそんな出会いが訪れるというのか。たとえ訪れても、それがどれほどの輝きを秘めたものなのか見極めるだけの眼力が備わっているというのか」
 自分の内なる声とは信じがたい言葉が限りなく、まるで熱いフライパンの中で爆ぜるコーンみたいに溢れだしてくる。
 このまま内なる邪鬼の声にわが身をさらし続ければ、あらぬ病魔が忍び込んできかねない。心を蝕まれ汚辱にまみれかねない。魔境に陥ってしまうかもしれない。
 そんな危機から救い出してくれそうな、心身のバランスを保ってくれそうな、およそ木戸が求めている嘘とはほど遠い、彼の身近な友人が吐いた嘘について書いておきたくなった。
 宇津木健司の吐いた嘘の内容がどうこうというより、後輩の彼のことを扱き下ろすことで自らの感性と眼力を研ぎ澄まそうという、これまた情けない、身勝手な心根だとは自分でもわかってはいるのだけれど。
 木戸の脳裏に宇津木の柔和な面貌が浮かぶ。

 数日前に木戸は、宇津木から軽い気持ちから自分でも信じられない嘘を吐いてしまったと打ち明けられた。たまたま喫茶店で見掛けた女性に心惹かれ、どうしてもその女性と知り合いになりたい、お近づきになりたいと思ったという。
 内気な宇津木の性格からして異例な行動だった。止むに止まれぬ感情と衝動に突き動かされたのだろうと木戸は察した。ところがその嘘の内容を知って愕然とした。と同時に、「マジか、お前!」と怒鳴りつけたい衝動が生まれた。木戸は唇を噛みしめて、口をついて出そうな言葉を抑え込んだ。
「彼女とこれからも繋がっていたいのなら、嘘だと気づかれる前に、一刻も早くお前がなぜそんな嘘を吐かざるを得なかったのか、そのときの正直な気持ちを告白しておくべきだ。その場限りのとるに足りない害のない嘘ならともかく、後からなんとかしようとしてもなんともできない、お前の人格にかかわる決別必死な嘘だからだ。ばれてしまった途端、人と人が関係を深めていくうえでの根底的な糸が切れてしまう。お前の長所である温和な、おそらく相手に好印象を与えたであろうプラスの要素のなにもかもがご破算になってしまう性質のものだからだ。
 嘘八百という言葉があるじゃないか。嘘が嘘を呼び、その塗り固められた嘘の泥濘に足を取られて、ついボロが出る。ほころび始めたらもう手がつけられない。あれよあれよと八百どころか、千じゃきかない嘘を重ねた辺りでどうにもならずに堰が切れ、完璧にばれてしまい、『実は……』とギブアップせざるをえない羽目に陥ってしまうのが落ちだ。記憶力と想像力の天才でない限り、神経衰弱で病んでしまいかねない。いや、笑いごとではなく、マジで。嘘を吐き通すことなど常人にはできないことなんだぞ」
 木戸はそのとき宇津木の口元がほころんだのを見逃さなかった。

「ちょっといいですか? 実は、僕は小説家なんですが」
 これが宇津木の嘘の始まりの言葉だった。
 いきなりそんな声の掛け方をする人間がいるだろうか。
 キーボードを打ちながら思い出して木戸はまた怒声を吐きたくなった。
 ――バカか、お前は!
「まったく突然で、失礼ですけれども」
「………………」
「これを」
 この日初めて出会った彼女に宇津木は自分の名刺を差し出した。
 ――フリーライター 宇津木健司……
「宇津木さん……」
「はい、宇津木というのは本名です。いまペンネームの猿渡真吾の方は切らしてまして」
「作家さんですか?」
「はい、デビューしたばかりですけれど」
 ――はい、二つ目の嘘。
「デビューしたばかり?」
「はい」
 彼は昨年の暮れまで中堅どころの広告代理店にコピーライターとして勤務していた。その後フリーとなり、勤務当時のつながりで雑誌や機関紙のちょっとした原稿書きの仕事をしていたが、作品の受賞経歴もなければ公に発表されたこともない。作家デビューなどしてはいない。
 デビューの顛末を訊かれたらうまく答えることができるだろうかという不安で、頭が真っ白になりかけた。そのとき彼ははじめて、後先も考えずに軽々しく吐いてしまった自分の嘘を悔いた。
「いきなり声を掛けられて……迷惑ですよね」
「迷惑というより、どうして声を掛けられたのかが読めなくて……」
「そうですよね。いま説明します」
 彼女は優しい笑みを浮かべていた。
「実は念願かなって、やっと昨年ある出版社の新人文学賞に入選でき、デビューを果たしたばかりなんです」
 ――さらに嘘の上塗り。
「そうなんですか? それはおめでとうございます」
「ありがとうございますって、そういう褒めていただきたいとか、自慢話というのではなくて、実は困っているんです」
 そのとき口からでてきた言葉に宇津木自身うろたえた。 
「………………」
「受賞第一作というのはクリアできたんですが、いまその出版社の担当編集者から、次作はぜひいま流行っているラブストーリーものを書いてもらえないか、というお誘いがきているんです。お誘いというよりも、試されている感じなんですよね。この新人はどれほどの実力の持ち主なのか、というね」
「そんなものなんですか」
「なにがですか?」
「いえ、作家さんというのは、出版社の編集者さんの注文内容でテーマなんか決めちゃうんですか?」
「ですよね、僕も自分なりの抱えている企画テーマはいくつか持ってますから、それを書きたいんですが、担当編集者にそんな言い方をされたら断れないというか、断っちゃったら金輪際僕が書いたものは活字にしてもらえないんじゃないか、これからもうまったく相手にされないんじゃないか、なんて考えちゃいましてね」
「大変なお仕事なんですね」
 今度は笑いを押し殺しながら彼女は応じた。
「デビューするまでは想像もしていなかったですよ、こんなことになるなんて」
「イヤだったら断っちゃえばいいじゃないですか」
 彼女の顔に面倒くさそうな表情が微かに浮かんだ。
「なさけない話ですよね、実は前々から暖めているテーマがあるんです、とかなんとか言って断るべきですよね。僕もそうしたかった。しかし、その編集担当者は何人もの新人作家を育てた実績がある方で、いまもさかんに作品を発表なさってる新進作家の担当者でもあって、要するに社内外で敏腕編集者として有名な方らしくて、また説得力のある言葉がこちらにびしびし伝わってくるんですよね。単なるいま売れてるからラブストーリーというのではなく、いま切り口の違ったものを打ち出す意味と価値についてとうとうと語られちゃいまして、……そこまでおっしゃるのでしたら書いてみます、と」
「受けちゃったんですね」
「はい」
 彼女の顔に半ば哀れみが入り混じった表情が浮かび上がってきた。
「で、なんでしたっけ?」
「そうでした、そうでした。実は僕の恋愛経験というのはお粗末なもので、経験も決して多いとは言えないし、想像力でなんとかなるというものでもないんですよ」
「そうなんですか」
「はい。それでさきほどからあちらの席から失礼だけれど、あなたを観察させていただいてまして、おかげで作品のイメージやちょっとした描写が浮かんできたんですが、肝心なストーリーというのが……。そこで見事に躓いちゃいまして、デテールというか、リアリティというか、実に貧弱なものしか……。
 で、とっさに思ったんです。お話をうかがえないものか、と。あなたの恋愛についての考えとか、できたらご自身の体験とか、そんななにか、取っ掛かりでもいいんです、お話がうかがえないものかと思いまして声を掛けさせていただきました」
 彼女は声を出して笑いだした。あっけらかんとしていて、決して不快な印象を抱かせるような笑い方ではなかった。からだをくねらせながら苦しそうにしばらく笑った後で
「ああ、おかしい」
 と、宇津木を幸せな心持にしてくれる輝くような笑顔を浮かべて言った.
「おかしいですか?」
「おかしいです、とっても」
「なぜ?」
「なぜって、私に恋愛についての取材をなさりたいというんでしょ? それも恋愛小説を書くために」
「ええ、まあそういうことに……」
 収まりかけていた笑いの渦が彼女に舞い戻ってきて、彼女は手を口元とお腹に当てて笑い崩れた。
「ああっ、もうたまらない。こんなに笑ったのは久しぶり」
 ひとしきり笑い終わったところで、訊いてきた。
「で、なぜ、私に?」
「何度も言うのもなんですが……」
 ――俺もお前に何度も言ってやりたい。肩書きで女を口説こうというのがなんとも情けないんだ。そんな詐欺師まがいの嘘をつかなきゃあきっかけもつくれないというのでは、土台最初からその相手の女性とつき合う資格なんかないんだよ。素では相手の関心を惹くことができないと端から自分を見限っているじゃないか。自分に自信がないことのなによりの証拠じゃないか。
 木戸はたまりかねて席を立ち、コーヒーを淹れるためにキッチンへ向かった。
「宇津木さんが恋愛小説をお書きになるのに、どういう理由でかわかりませんが、この私がお役にたてると思っていただけたということは大変光栄です。お礼を申し上げなければならないお話しなのかもしれませんが、だからといってなぜ私がそのお手伝いをしなければならないのでしょう」
「そりゃあそうですよね。義理もないし、理由もない」
「そうまでは申しませんが……」
 彼女は賢明だ。なぜそんな見知らぬ男の身勝手な申し出に (実際は嘘だけれど) 応じなければならないのだ。彼女がそれに応じる可能性は限りなくゼロに近いと言わざるをえない。そんな訳のわからない申し出にほいほいと乗って自分のプライベートな話をペラペラと披露するような感覚だとしたら、常識的に考えて大したお相手とは思えない。
 宇津木健司はアクションを起す前に気づくべきだったのだ。自分がとっさに思いついた嘘は相手の気を惹きたいという下心からだということ、話し掛けるきっかけづくりのためだということを。そして衝動的にとろうとする振る舞いがいかに浅はかで恥ずべき方法であるかということを。
 彼は吐いた嘘を悔いる瞬間はあったけれども、自らがとった行動を恥じることもなく善なることとして受け入れてしまっている。自らの行為を顧みるどころか、その嘘のおかげで彼女と話すきっかけができたこと、繋がりができたことに気を良くしている。
 当然だけれど、彼女の口から快諾する言葉は出てこなかった。
「また会ってもらえませんか?」
 彼は彼女の伝票をさりげなく自分の方へ引き寄せ、そう告げた。
 彼女は真顔になった。しばらく待ったが、彼女はなにも言葉を発しなかった。
「よかったら、その名刺の連絡先に電話をください」
 彼は丁寧にお礼を述べて、彼女をひとり残してその店を出た。
 ――交際が始まることになったら、彼女に正直に今日の僕の話がまったくの思いつきのきっかけづくりのための作り話だったことを打ち明けなければならないだろうな……
 あきれたことに、満更でもない心持ちに浸っていた。いま自分を包み込んでいるものの、とても言葉では言い表せそうにない心地よさにすっかり酔っていた。

 宇津木は彼女と別れたその足で木戸の事務所に姿を現した。そして概ねいま紹介したような話を得意満面に話して聞かせた。
「正気か、お前」
 彼に木戸は自分の意見を伝えたが、婉曲的に話したせいもあってか、すっかりのぼせ上っている宇津木の心には届かなかったようだ。
 宇津木は進展があったらまた報告にくると言い残して、気落ちするどころか上機嫌で帰っていった。

 木戸はモニター画面のいま自分が入力した文章を読み返しているうちに、自分の試みの醜さが次第に露になってきて息苦しい気持ちになった。一瞬にして書き続けていく気が萎えてくる。自分が期待した効果がまったくないことに気づかされる。
 木戸はマウスを左クリックしたままスクロールさせて全文網掛け状態にし、忌まわしい感情が増幅するのを断ち切るかのようにデレイトキーを押した。

         *

 それから数日後のことだ。夜更けに宇津木の携帯電話のビゼー『カルメン前奏曲』の着メロが鳴り出した。
「宇津木さんですか?」
 聞き覚えのある女性の声に驚いて飛び起きた。彼は彼女からの連絡を半ば諦めかけていた。
「天野かおりです。と言ってもお分かりになりませんよね。先日宇津木さんに声を掛けられた者です。ご依頼のお話の件なのですけれども、私の体験でよろしければぜひ聞いていただけたらと思いまして……」
「本当ですか?」
「はい」
「いゃあー、もうてっきり……」
 その夜更けに彼が口にしたことはすべて彼の彼女への偽らざる気持ちだった。一方それに対する彼女の受け答えはあまりにも事務的すぎるように思えるふしがあったが、宇津木にしたら満更でもない感じだった。
 彼は約束の日時と場所を告げ、「必ずですよ。すっぽかしなしで」と何度も念を押して電話を切った。
 彼の中の彼女への想いが一気に再燃した。彼女の澄んだ瞳が彼の脳裏に鮮やかに甦ってきて、外が明るくなるまで睡魔が襲ってくるようなことはなかった。

 約束の日は瞬く間に訪れた。彼は真新しい純白のドレスシャツに袖を通し、この日のために購入したばかりの、漆黒のカシミアジャケットを羽織って颯爽と待ち合わせ場所に出掛けていった。
 待ち合わせの時間よりも三十分も早く約束の喫茶店に着いたのにかかわらず、すでに天野かおりは出会ったときの日と同じ窓際のソファに入り口に背を向けて座っていた。宇津木は一瞬自分の眼に映っている彼女の後姿が現実のものではなく、幻でも見ているような錯覚にとらわれた。
 彼が向かいの席に腰を下ろし再会の挨拶をすると彼女はそれに軽く応じ、次に彼が口を開きかけるのを制するかのようにいきなり本題の話を始めた。
「私が生まれて初めて好きになった人は、父の生まれ変わりとしか思えない人でした」
 彼はあわてて鞄からノートと万年筆をだそうとした手が止まった。自分の耳を疑った。
「生まれ変わり、ですか?」
「はい。父が姿を変えてこの世に再び現れた人でした」
「………………」
「父は私が高校を卒業する年の春に交通事故であっけなく他界いたしました。父と死別してはじめて、いかに父の存在が大きかったのか、影響が強かったのかに気づかされました。依存する気持ちが私の中にしっかり育まれていることに気づきました。思ってもいない気づきでした。父の死によって生まれてはじめて父の私への思いが私の心の奥深くまで突き刺さっていることを知りました。おかげでその後長い間、私は胸の内からすっぽり抜け落ちたものの欠落感、喪失感からなかなか立ち直ることが出来ないでいました。そんな不安定な心の状態のまま生活していた時、突然彼が私の前に現われたんです」
 彼女は宇津木に口を差し挟む間も与えずによどみなく語り続けた。
「輝美は、輝美というのは彼の名前です。輝美は末期の肝臓がんで余命いくばくもないとお医者さんから告知されていたそうです。その彼に私の父の肝臓が移植され、その後がん細胞の転移も、取り立てて大きな拒絶反応もなく、健康なからだを取り戻すことが出来たんです。彼は移植される前から毎日『自分の命を救ってくれる提供者が現われて、自分にもう一度生きるチャンスが与えられたら必ずその人やその家族の方々が幸わせになるために自分の人生のすべてを捧げます。どうかそのチャンスを与えてください』と祈っていたそうです。そして、退院すると同時に、輝美はその約束を果たすために提供者の情報を集めることに奔走したそうです。あらゆる手立てを尽くし、そして臓器ネットワークの総本山といわれる医療機関のデータベース先を突き止め、そこのコンピュータに侵入し、ついに探し求めていた提供者の情報を手に入れ、その証拠の写しを持って私の家に訪ねてきたんです」
「………………」
「私と輝美は運命的な糸で結ばれているように思いました。彼とつき合い始めるようになってから次第に私の中の大きな欠落感が魔法にでもかけられたかのように癒されていきました。そのぽっかり空いた部分がジグソーパズルの欠けたピースがはめ込められていくように、埋められていくように思えました。私は輝美に抱かれている最中に、すぐそばに生身の父がいて見守ってくれているような錯覚を覚えることが幾度かありました」
 そこまで語ると、彼女はふいと窓の外に顔を向け、口を閉ざした。沈黙の間中、宇津木は爽秋の透明度の高い蒼穹を見上げる彼女の顔を眺めていた。しばらくして、彼女が空を見上げたまま呟くようにぽつりと言った。
「私の話を信じてもらえますか?」 
「もちろん、信じます」
 と、宇津木は心とは裏腹の答えを口にした。
「宇津木さんなら信じてもらえると確信していました」
 宇津木はそれには答えず、その映画のストーリーのような内容の話についていくつかの補足的な質問を彼女に投げかけた。彼女は真面目な顔で宇津木のその質問に一つひとつ丁寧に答えていった。見る見る間に、彼のノートは彼女と彼女の恋人である輝美という青年の、信じられないくらいに美しい輝きを放つエピソードの数々と二人の過ごした濃密な時間を再現する記述であふれんばかりになっていった。
 その日の宇津木の彼女への取材は三時間あまりにもわたり、彼がメモをとる手を休めるや否や彼女は疲れきった表情の宇津木に向かって言った。
「ひとつだけお願いがあるんですが……」
「はい」
「下書きでもいいんです。書きかけでもいいんです。ある程度話がまとまった段階で一度原稿を読ませてもらえないでしょうか?」
「もちろんいいですよ」
 宇津木は彼女のあまりもの真剣な目つきに圧倒されてそんな答えが口をついて飛び出した。
「私のメールアドレスに送っていただけないでしょうか?」
 宇津木に彼女の一途さに抗うすべは何もなかった。ただただその積極さに圧倒されていた。
 彼女はあらかじめ決められていたかのように自分のコースターをひっくり返し、そこにさらさらと自分のメールアドレスを書きしたため、彼の方へ差し出した。
「ここへ」
「あ、はい。わかりました」
「それじゃあ、今日はこれで失礼します」
 彼女はそう言うが早いか、レシートをつかみ席を立った。
 この後食事に誘うつもりでいた宇津木が引き止める言葉を捜しあぐねている間に、彼女は宇津木に一礼するとレジの方へ向かっていた。
 宇津木はその思ってもいない展開にあっけにとられたまま、ひと言も発することなく彼女の後姿を見送ることしかできなかった。

         *

 宇津木が彼女にどういう理由で断りの連絡をしようか考えあぐねていたある日の午後、天野ゆかりの方から電話が掛かってきた。
「私の話はお役にたてたでしょうか?」
「はい。もう……大変参考になりました」
「………………」
 彼には彼女の気持ちが手に取るように分かった。
「まるっきりそのままというわけではありませんが、いますでに書き始めています、ほんの書き出しだけですが」
 宇津木は嘘を吐いた。一行も書けていなかった。
「お願いがあるんです。勝手な申し出だとは充分承知しています。はっきり言います。一部分ではなく、私がお話した私と輝美の話をそのまま小説にしていただきたいんです」
「そのままですか?」
「はい」
 その物言いの気迫と真剣さに彼は彼女の強い意志を感じた。
「そのままとおっしゃられても、フィクションですから、小説は」
「できるだけそのままで……」
「もちろん事実をそのままというのでは小説にはなりませんが、現実に近い形でまとめるという方法がないわけではありません。でも、そういうことだとしてもこの前の話だけではとても足りません。もっと詳しい話をきかせていただかなくては」
 彼の中に彼女と会うきっかけができるという邪まな思惑があった。
「それは構いません。質問していただければ、いくらでも詳しいお話をさせていただけると思います」
「そうですか。確約はできませんが、かおりさんがおっしゃる方向で取材を続けさせてくださいませんか?」
「はい」
 宇津木はその時はそういう話であれば、あとは何とか理由をつけて反故にすることができるだろうと高を括っていた。
 彼女と会う日時と場所を告げると電話を切った。

 幾度目かの彼女への取材を経た時点で、宇津木はやっと目が覚めた。もう後戻りはできなくなっている。彼は自分が吐いた嘘を呪った。
 ――このまま行方不明になってしまおうか……。
 すでに時は遅し。優柔不断の彼にそんな決断をする実行力はなかった。彼は自分の彼女への思慕に後ろ髪を引かれて、彼女の前から姿を消すという解決策すら実行できない袋小路に追い込まれていた。
 そんな悶々とする日々の末に、彼は心を決めた。自分に残された道はもはやただひとつ、彼女が求めている亡き恋人との話を自分の手で一篇の小説に仕上げて彼女に捧げるしかない、と。
 それから一ヵ月あまり後にやっと彼なりのベストを尽くした八十枚足らずの短編小説が出来上がった。宇津木はあまり推敲もせず、待ちわびている彼女に一刻も早く読んでもらいたくて、そのまま「下書きですが……」と前書きつきの原稿を彼女が教えてくれたメールアドレスへ送信した。
 宇津木は送信しても心休まる瞬間は訪れなかった。彼女の感想が案じられてならなかった。
 ――満足してくれなかったら……、不快な仕上がりだったとしたら……
 送信してから一日がたち、一週間がたち、半月過ぎても彼女からの連絡はなかった。行方知れずになったのは宇津木ではなく、天野かおりの方だった。
 教えられた携帯に電話をしても、呼んでいるにもかかわらず一向に出る気配がなかった。何度も留守録に「連絡を」と残しても返信はなかった。
 宇津木は自分が偽小説家だと彼女にばれてしまったせいだと思った。嘘を吐いた自分に腹を立て、自分との繋がりを絶とうとしているのだ、と。彼は悔やんだ。木戸真琴が助言してくれたように、彼女が真実を知る前に自分の方から打ち明けるべきだった、と。

         *

 天野かおりは、上司から指示されるがまま、担当させられたベテラン作家の連載原稿の受け取り、校正ゲラの受け渡し、校了までの進行管理という毎月のルーティン化した仕事に飽いてしまっていた。
 文芸編集者として無名の作家を自分の手で育て、デビューさせたいというかねてからの欲求がたまりにたまった状態の時に、奇しくも宇津木健司と出会ったのだ。 
 宇津木の吐いた嘘のすべては天野かおりにはとうにすっかりばれていた。どれほどの才能の人物かも分からないのに、彼女はなんの裏づけもない単なる勘だけで宇津木に小説を書かせてみたいと思い立ったのだ。
 その無謀ともいえる企みはすぐに頓挫せざるをえなかった。小説家に憧れていたとはいえ、本腰を入れて小説を書いたことのない宇津木が書いて寄越してきた原稿は読むに耐えないものだった。綴られる文章は冗漫きわまりなく、必要のない過剰なまでの入れ込みすぎの心理描写がそこかしこにちりばめられていて、出くわすたびにため息が出た。読み続けることは大変な労力と忍耐がいる作業だった。
 彼女は何度も自分の思いつきを諦めかかった。あっさり宇津木にその企みを明かし、「もうお互い無駄なことは止めにしましょう」と告げたかったか知れない。そうしなかったのは、宇津木の原稿の一ページに一箇所か二箇所、きらりと光るものが刻み込まれていたからだ。筋は悪くなかった。思いもつかないすばらしい暗喩に出会うこともあった。
 彼女は宇津木の執筆意欲を損なわぬように気配りをした簡単な感想と共に、詳細な注文書きの付箋をたくさん貼りつけたプリントアウト原稿を送った。

 宅配便で送られてきた封筒の差出人の名前を見て、宇津木は歓喜のあまり小躍りしたくなった。はやる気持ちを抑えて仕事部屋へ向かった。
 ハサミが見当たらなかったので手で開封した。一刻も早く天野かおりの感想が知りたいと急く気持ちが災いして封筒はいびつに破れてしまった。
「ご連絡が遅くなってごめんなさい。宇津木さんから送られてきた原稿はすぐに目を通させていただきました。
 お話ししただけなのにちゃんと小説の形になっていることに驚きました。ありがとうございました。心から御礼申し上げます。
 早速ですが、お願いがございます。お気を悪くされるのを覚悟で、思いついたことをあれこれ書いた付箋を付けさせていただきました。読ませていただくうちに、あんなことがあった、こんなこともあったと次々と思い出されてきてしまい、欲が出てきて、つけ足していただければとの一念で、あれこれメモさせていただきました。
 また事実とちょっと違うかなというところや、このときはこんな気持ちだった、こんな風に感じていたとかというところにも付箋を付けさせていただきました。
 本当に不躾なお願いとは存じますが、どうか叶えていただければ幸いに存じます。
 取り急ぎ、御礼とお願いのみにて失礼いたします」
 付箋の多さもさることながら、その追加メモの微細な内容に驚かされた。 
 つき合いのある雑誌社の編集者でもここまでのことはしないし、できないだろうと思った。ただならぬ熱い無言の圧を感じた。自分の大切な、忘れることのできない貴重な体験だからこそこれほどのことを可能にしたのだろうというくらいにしか推量できなかった。さらに奥にある理由にまでには思い及ばなかった。
 宇津木は奮い立った。彼女の求めに精一杯応えようと改めて覚悟を固めた。
 寝る間も惜しんで原稿の完成度を高めるための追加削除に明け暮れた。付箋箇所の改稿が終わると続けて全体の推敲作業に心血を注いだ。そして半月後には天野かおりのメールアドレスに仕上げた原稿ファイルを送信していた。

 彼女は改稿原稿の初めの数ページを読み終えたところで軽くこぶしを握った。ブラッシュアップされた宇津木の原稿に手ごたえを感じたからだ。
 しかし、まだまだ甘い。彼女は自分で朱入れをしてみようと思った。徒労に終わるかもしれないが、賭けてみることにした。さらに磨きがかかって自分でもびっくりするような作品が誕生することを夢見て。
 仮に結果が期待するレベルにほど遠いものであったとしたら、そのときはきっぱり諦めて、宇津木健司のこともこの小説のことも全部忘れてしまえばいいのだ、と開き直った。
 そんな折、彼女の机の上においてあった、彼女の朱入れのおかげでそれなりに形を整えた宇津木の原稿がたまたま上司の与謝野寛の目に留まり、その後の展開は、天野かおり当人ですら信じられないことだらけだった。
「まだまだ作品と呼べる域には達してはいないけれども、まあまあ読める。この調子で天野くん、いま一度赤入れしてみてくれないか。そのうえでもう一度読ませてもらっていいかな」
 与謝野はこの原稿が誰のものか、どういう筋合いのものかも問うことなく、そう言うと何事もなかったようにいつものようにすたすたと後ろを振り返ることなく編集部室を出ていった。
 彼女は自分の耳を疑った。と同時にしばらく恥ずかしさで真っ赤な顔をしてその場に立ち尽していた。
 自分の本来の仕事を終えた後の時間を宇津木の原稿との格闘の時間に割いた。毎日深夜まで編集室の自分のデスクのパソコンに向かって手入れをしては推敲し、また赤入れをしては読み直すという日々を過ごした。睡眠時間を減らしても一向に気力が衰えるようなことも、また疲れを感じるようなこともなかった。
 与謝野に完成した宇津木の原稿を渡す時、いろいろ宇津木健司についての経歴や内容について質問されるだろうと答えを準備していたが、与謝野は「ああ、あの原稿だね。後で読ませてもらう。お疲れ」と言っただけで、再び開いていた本に目を落した。
 天野かおりはすっきり整理された、大きな上司のデスクの角にそっと原稿を置くとデスクを離れた。拍子抜けしたまま自分のデスクに戻り、再びちらっと与謝野の方を見たが、彼は先ほど彼女が声を掛けた時とまったく同じ姿勢で本を読み続けていた。

 数日後の昼過ぎ、天野かおりに与謝野寛から内線電話が掛かってきた。「いま時間あるかな? あればすぐ会議室にきてほしいんだけど」
 彼女は「あの原稿のことだ」と直感した。惨憺たる感想をいわれることを覚悟して会議室の扉を開けると、会議室には自社刊行の文芸誌の編集長の真野祐司と与謝野の二人が窓側の席に坐っていた。
 彼女が会議室の彼らとは反対側のひとつの椅子に坐るや否や、矢継ぎ早に真野は質問を浴びせてきた。
「宇津木健司」とはどういう素性の人物か、経歴は、年は、君とどういう関係の人なのか、どういういきさつで君はこの人の原稿に赤入れをしていたのか、どういう目的からか、などなど、彼女はそれらの矢継ぎ早に繰り出される質問の嵐に目が眩むような感覚を覚えた。
 真野の質問がひと通り済んだところで、与謝野がはじめて口を開いた。
「正直言って出来としてはまだまだだと思う。でも文章に輝きが感じられる。この人には才能があると思う。君の赤入れのおかげかもしれないけれど……」
「私も同感」
 真野が口を挟んだ。
「来月号にページに空きがあるんだけれど、どうだろう、この原稿を載せようと思うけどなにか問題があるかな」
 彼女は胸が一杯になって、その問い掛けにすぐに答えることができなかった。自分の原稿が掲載される以上の喜びに満たされていた。一瞬にして自分の夢実現のための扉が開け放たれたように思った。
 会議室を出ると彼女はすぐに宇津木健司に事の顛末を伝えたい衝動に駆られた。実際彼の携帯電話番号を自分の携帯電話の液晶画面に表示させもした。しかし彼女はその衝動を抑えた。
 いま自分が感じている至福を宇津木に伝える言葉を彼女はこれっぽっちも持ち合わせていなかったからだ。手紙も考えたが、やはり同じ理由からそれも止めることにした。
 あの小説が実際活字となり、雑誌が刷り上ってきた時に、宇津木に直接会って現物を渡して本当のことを打ち明けるのが最良の方法だというところに彼女の気持ちは落ち着いた。

 数週間後にその雑誌の見本が出来上がってきた。刷り上がったばかりの雑誌を開いて、もういちど宇津木の小説を読み返した。彼女に彼の驚く顔が浮んだ。
 彼女は自分の携帯電話を取り出し、数ヶ月ぶりに宇津木の携帯電話番号を入力し、そして迷うことなく発信ボタンを押した。

         *

 宇津木の携帯電話の「カルメン」着メロが鳴った。手にした携帯の着信画面に慕わしい「天野かおり」の文字が表示されている。宇津木はすぐ切れてしまいそうな気がして慌てて電話に出た。
「かおり、天野かおりです。お久しぶりです」
「かおりさん、どうしていたんですか? 何度も電話したんですよ」
「すみません」
「でも良かった、またこうしてかおりさんと話ができて。もう永遠に連絡がとれないように感じていたんです。本当にすいませんでした」
「えっ? なにがですか?」
「つまらない嘘を吐いて、いまは心から後悔しています。もっと早く打ち明けていればこんなことにならなかったのではと悔やまれない日はありませんでした」
「なんの話?」
「デビューしたての駆け出し小説家という……」
 彼女は突然笑い出した。
「ごめんなさい」
「………………」
「笑い過ぎですよね。とうに知ってました」
「えっ?」
「最初っから」
「最初っから?」
「はい、名刺をいただいた時から」
「じゃあ、なんであんなプライベートな話を僕に詳細にお話くださったんですか?」
「それは今度お会いした時にお話します」
「僕もお会いして謝りたいし、どうしてそういう嘘を吐くことになったのかも、そして、そして自分の本当の気持ちも……」
「本当の気持ち?」
「ええ、今度は正直に」
 彼女は初めて出会った時のようにあっけらかんとした笑い声を送ってきた。あの日の彼女の身を捩じらせて心底おかしそうに笑う姿が脳裏に浮かんできた。宇津木はこのときも彼女の笑い声に微塵の不快感も抱かなかった。
「どんなお話だか愉しみにしています。では、明日、同じ場所で同じ時間に」
「必ず行きます」
 宇津木は電話を切ってからも天野かおりと電話で話したことが夢の中でのことのような、不確かな感覚にとらわれていた。もう連絡がつかないと諦めかけていただけに、彼女から電話をもらったことが彼の中では信じられないことだった。明日彼女が現われなければ、やはり現実ではなかったんだと信じただろう。

 天野かおりは約束の時間どおりに現われ、「お待たせしました?」と言うが早いか宇津木の向かいの椅子に坐った。
 彼はあまりにも現実感が希薄だったために、確かなものを摑みたくて指定の時間より一時間も早く待ち合わせ場所に来ていた。宇津木は彼女の顔を見てほっとした。
「もう会えないかと思っていました」
 彼女は笑いながら、自分の黒のショルダーバッグのファスナーを開け、一冊の真新しい雑誌を宇津木の前に置いた。
「なんですか?」
「まあ開けてみてください」
「あっ!」
 彼は雑誌の目次を開いた途端、そこに自分の名前があるのを見て目を疑った。
 その該当ページを開いて最初の文章に目を走らせた。
 ――間違いない、切り刻まれてはいるが、これは確かに自分の文言だ……。
「どうして……」
 独り言ともとられかねない小声で彼女へ問い掛けていた。
「宇津木さんの小説です。若干の手直しとタイトルは変えさせていただきましたが」
「どういうことなんですか?」
 彼は狐につままれたような気分だった。小説家でもない自分の小説が、なぜ名の通った文芸誌に掲載されているのか理解できなかった。

         *

 宇津木は木戸真琴にいますぐにでも彼女のことを紹介したいという衝動にかられた。この嘘のような展開を木戸はにわかに信じてくれないだろうと思った。
 木戸の浮世離れした顔を思い浮かべた。そして、想いを受け入れてくれた天野かおりを前に歓喜のあまり声を上げて笑い出した。



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