見出し画像

「旅」は「移動」になってしまうのか

以前のエントリーで、新しい新幹線はトンネルが多く、移動にともなう風土の変化を車窓に感じることが難しい、と書いた。

これは「旅」が「移動」に変わっていくとも言えるかもしれない。
最近、読んだ『オートメーション・バカ』という本が、このあたりの考えを補強してくれたので書きとめておきたい。

著者は、さまざまなテクノロジーによって便利になるのと引き換えに人がどんどんダメになっていく!と語っている。その中にスマホの地図アプリが旅を変えた話がある。

最小限の努力と面倒だけでわれわれをA地点からB地点へと連れていってくれるGPSデバイスは、われわれの生活を楽にし(中略)、ある種の鈍い幸福感を吹き込んでくれるものである。だが、これに頻繁に頼った場合われわれは、周囲の世界を把握する―および、その世界を自分の一部にする―ことの喜びと満足感を失うことになる。

また、こういうくだりもある。

旅人は「行動と知覚とが緊密に結びついている動きの経験」を楽しむ。旅は「成長と発達の進行しつづけるプロセス、または自己刷新」となる。(中略)輸送の場合、旅行者はほんとうの意味での意義のある動きをすることがない。「むしろ彼は動かされ、みずからの身体の乗客になる」。
『オートメーション・バカ』(ニコラス・G・カー)
第6章 世界とスクリーン

旅の計画が時刻表からスマホの乗換案内アプリに取って代わられ、車窓に感じていた地勢の変化はトンネルによって消えさった。いまの旅のスタイルには上記の本のことばを借りるなら「世界を自分の一部にする」体験が失われつつあるのかもしれない。

一方で、さまざまなテクノロジーを使うと、旅の本来の楽しさを取り戻せるはずだ。いま、私たちは進みすぎたテクノロジーをまだ上手に使いこなせていないタイミングなのだろう、と思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?