言葉
谷底に広がるサラエボの市街地を避けるようにバスは山の上を通り過ぎてしまった。「市街地に一番近い道端で降りられるよ」とヴィシェグラードの観光案内所のお兄さんは言ってたが、英検3級の耳ではうまく聞き取れず、勝手にそう解釈していただけかもしれない。辞書持ち込み可の大学受験の英語は、辞書を引くスピードを極限まで高める練習をしたタイプだ。英語なんて聞き取れてたまるか。バスの車掌に伝えれば、降ろしてくれるかもしれない。だが互いにロクに英語は話せないので、会話は面倒だ。私の旅の醍醐味は無言だ。バスの進むまま、唯々諾々とサラエボの街を眼下に見下ろしながら、セルビア人共和国側の東サラエボのバスターミナルまで乗り続けよう。
ボスニア紛争の爪痕であった。激しい内戦は20年以上前に集結していたが、セルビア人とボシュニャク人の住む地域は分かれている。バスの走る山の上はセルビア人側。谷底はボシュニャク人側。サラエボ包囲の舞台である。
寂れたバスターミナルに着く。特徴のない郊外の通りにある見えない境界線を歩いて越える。ボシュニャク人側を走るトロリーバスに乗る。いま走ってきた山の上から降り注がれた銃弾の弾痕が無数に残る建物の中、谷底を1時間ほど戻る。路面電車に乗る。隣に立っている若いきれいな女性。大きな赤いスーツケースを抱えたくたびれた中年東洋人が載っている不運に見舞われているからか、無表情。ついと彼女は私が手に握りしめて手汗で湿った切符を奪い取った。そして、私の手からは届かない車内の切符の刻印機に刻印してくれたのだ。小さな声でフブァーラ(ありがとう)と言う。切符を返しながら少し笑顔を見せてくれる。ただ、これ以上言葉は続かなかった。
予約をしていた小さなホテルに着いた。同い年くらいのきれいな女主人が満面の笑みで迎えてくれた。「お疲れ様、待っていたわよ。さあゆっくりして。これからどうするの?明日の朝ごはんも好きなもの言って。なんでも作るから……」。10分くらい止まらない彼女の話を英検3級の耳でかろうじて聞き取れば、こちらも笑みがこぼれるのである。ただ、私は早くトイレへ行きたかった。しかし、話しの骨を折る言葉は出てこなかった。
サポートしてもらって飲む酒は美味いか。美味いです。