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【掌編小説】綺麗な地獄

 ――この道は、地獄へ続いとるんよ。
 浜辺を歩いていると、ふいに声をかけられた。
 振り向くと、背の曲がった老人が、やわらかな笑みを浮かべて立っている。暑さしのぎの麦わら帽は潮風に吹かれて年季の入ったらしい濃い飴色、首元には長めの手ぬぐい、端っこが風にひらひらしている。木の棒をそのまま杖にしたようなものを砂につきつき、こちらへ近づいてきて、
 ――気ぃつけんと、いかんよ。
 と、続けた。相変わらず微笑していて悪気も害意もなさそうだが、私は、――はあ、と気の抜けた返事をするしかない。
 よく晴れた秋の日で、空は青いし海は蒼い。岩の多い浜辺で、海水浴には向かなさそうだし今はその季節も過ぎてしまっているが、白い砂地はさくさくと歩きやすく、波はざざん、ざん、と穏やかに打ち寄せてくる。
 この穏やかな日盛りの下で、地獄と言われても。こちらは同じく帽子をかぶっているものの、この夏におろしたてのベージュのつば広で、水玉模様の紺色ワンピースも旅行のために買ったばかり、サンダルはちょっとヒールが高め。いかにもな行楽客にしか見えないだろうから、からかわれているのだろうか。
 ――この道、ですか?
 老人の視線の先、私がつい今し方までぼんやり歩いていこうとしていた先は、浜辺伝いに林の中へ入っていく小道になっている。あれは松の木だろうか。緑色が濃い。木陰は確かに暗いが、地獄へと続いている風には見えない。
 しかし老人は嬉しそうに、――そう、この道ね、とうなずき、すうっと片手を伸ばした。
 ――今はええけどね。夜になったら危ないからねえ。気ぃつけんと。
 しわだらけの日に焼けた顔を近づけてきて、ささやく。
 ――あんたさんのような人は、特にね。
 どういう意味か。問い返す暇は与えてくれず、――ほんならね、と愛想良く会釈はして、杖をつきつき、おじいさんは去っていく。歩く速度は意外な速さ。杖は本当に必要なのか。何の小道具か、あれは。

 夜になったら危ない、というのはつまり、夜になってからもう一度来てみなさい、ということだろう。ご託宣を、そのように解釈した。
 宿は小さな民宿で、季節外れの平日、泊まり客は私だけ。夕飯時には宿のご主人、奥さん、中学生の娘さん二人、総がかりで接待してくれた。温泉を引いているという風呂も小さいながら、大変気持ちよくいただいた。
 玄関のすぐ脇が家族の居間と見えて、深夜になったにもかかわらず、まだテレビの音と娘さんたちらしい話し声が漏れてくる。建て付けの悪い玄関戸をがたがたとやったら、すぐに二人が顔を出してきそうだ。三和土に置いてあったサンダルだけ回収し、部屋に戻る。部屋が一階で良かった。窓から抜け出す。鍵はかけられないので不用心かもしれないが、おそらくこの辺りの治安は悪くない、と思う。
 夜だけれど、寝間着代わりのジャージから水玉模様のワンピースにちゃんと着替えた。これを見せたかった人は、一緒にこの旅に来るはずだったのに、来られなくなってしまった。――お一人ですか、ご予約はお二人でとうかがっていましたが、と心配そうな顔をした宿のご主人に、上手い言い訳を考えるのが大変だった。恨み言の一つや二つ、言ってやりたい。
 昼間より、さすがに空気はやや冷たい。けれど寒いというほどではなく、温泉で火照った肌いは心地良いくらい。
 ざざん、ざん、と海も、穏やかな音で出迎えてくれた。地獄へと続く道は確かこの辺りから、と浜辺を足で探ってゆく。何せ真っ暗闇だ。月明かりしかない。気をつけなくては、と思ったところで、はっとする。
 灯りが、ある。
 それは白い、大きな花だった。
 カラーの花――あれは花ではない、中の黄色い部分が花であって、とはよく聞く説明だが、ともかく一見したところでは花に見えるあの白い部分――によく似ているが、それよりもずっと大きい。そして形としてはややふくらんで少しうつむき気味なあたり、鈴蘭にも近い。
 地面からすくと立ち上がった太い緑色の茎は、私の背丈ほどの高さまで伸び、その先に白い花が咲き、中にあたたかい橙色の灯りが入っている。その花の灯りが、浜辺伝いにぽつぽつと続いて、この道、と昼間、おじいさんが示していた道をほのかに照らし出していた。
 見ているうちに、思い当たった。
 これは、新盆用の白提灯に似ている。ここに一緒に来るはずだった彼女の家で、彼女の遺影の前に灯っていた、あの白提灯に。
 道の先を見やり、彼女の名前をつぶやきかけて、やめた。
 ――エウリュディケ―。
 白い花の灯りが導く先へ、すうと片手を伸ばし、私は呼ぶ。
 ――私のエウリュディケ―。今から迎えに行くよ。
 私は竪琴なぞ持ってはいないけれど、行こう、地獄へ。あなたがいるのは、きっととても綺麗な地獄だろうね。こんなに美しい花が道しるべになっているのだから。
 さくさくと砂の上を歩きながら思う。
 オルフェウスも、所詮は失敗した試みだ。この世へ連れ戻せなくても、かまわない。ただ行きたい、あなたのそばへ。
 ざざん、ざん、と波音は優しく響き続ける。白い花の灯りは、闇の中、どこまでも続いている。

(了)

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