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ジャンルやCPは、あなたの「所属先」じゃないし、書き手であることも、あなたの「スタンス(≒役割)」じゃない


「〇〇に所属している、□□のきょうやと申します」

仕事の関係で出会った人に、自己紹介するとき。
まずは所属を述べ、職種を告げ、最後に名前を言う。
この国で生きる、だいたいの社会人は、そういう自己紹介をするんじゃないかと思う。少なくとも、私の周囲にいる人たちはだいたい、そうだ。

思えば、小学生の時にはすでに「〇〇小学校X年Y組の、きょうやです」という自己紹介の仕方をしていた気がする。
それが教育の結果なのか。自然とそうなったものなのかは、わからないけれど。

「ジャンル〇〇のA×Bで同人小説を書いてます、きょうやです」

そして、おそらく。
同人で出会った人に、自己紹介するとき、私は、真っ先にジャンル・CPを述べ、つづいて同人活動のスタンス(≒役割)を表明し、それから、ようやく筆名を述べる。

しかし、冷静に考えると妙だ。

ジャンルや推しCPは、私の所属先ではない。ただの好みである。
字書きであることも実はスタンス(≒役割)ではない。ただ、私が書きたくて書いてるだけだ。

にもかかわらず、自分が推しCPという"界隈"に所属し、字書きという"スタンス(=役割)"を取っているかのような自己紹介をする。

なぜ

「きょうやと申します。A×BというCPが好きで、彼らの恋愛模様について妄想し文章を書いています」

と、ならないのか?

「よくわかんないけど、私は勇者だから、魔王を倒しに行かないといけないらしい」

日本人には、自分が「何者であるか」を、はっきりさせてから、自分の行動を決めていく特性があるように思う。

私たちは、RPGの世界で、いきなり
「お前、勇者だから、魔王討伐がんばって。ちなみに拒否権はないから」
と宣告されても
(そうか、私は勇者だから魔王をやっつけるんだな)
と、納得して、旅に出る。

中学生になったら「一年坊主」として、先輩にへこへこする。
中二になったら「先輩」として、一年生に横柄な態度を取る。
中三になったら「受験生」として、内申書がよくなる行動をこころがけ、勉学に励む。

私の周辺には「役割ありきで行動を決める」人たちがたくさんいたし。
私自身にも、こころあたりがある。

「行動の積み重ねによって、自分の存在が定義されていく」

仕事の勉強会で

「欧米の人って、まず行動(doing)して、それによって自分の在り方が決まって(being)、それから自分が何者になっていくか(becoming)が決まり、自分の居場所ができていくんだよね(belonging)」

という話を聞いたとき。
私は結構な衝撃を受けた。
海外に行ったことがないから、本当のことはわからない。

だけど、スウェーデンの人がつくったとかいう、マイクラというゲームをしていると、その意味が少しわかる気がする。

主人公は、なんの役割も与えられていない。だから、まず、行動する。
さまざまな行動を重ねていくうちに、ゲーム内における自分の在り方みたいなものが確立してくる(Being、Becoming)。

「私はどこにも属していないし、なんの役割も担っていない」

同人アカウントのTLを眺めていると

「A×B好きを名乗ってるのに、別ジャンルの話ばかりすみません」

とか

「最近、作品をアップできなくて、すみません」

とか……そういう、ツイートをみかけることがしばしばある。
時には

「最近○○を書いてないから、人権がない気がする」

というような、深刻な、つぶやきを目にすることもある。
たしかに、インターネット以前……どころか。
もっと昔。
同人専門の印刷所が、存在していなかった時代における、同人活動は「同じ趣味を持つ仲間が集まって、一緒に本を作り頒布する」という形式が一般的だった(らしい)。
その時代には、同人活動における所属と役割というものが存在していたことだろう。
しかし、今はどうか?
現在、二次創作で発行される同人誌のほとんどは「個人誌」の形態をとる。
インターネットにおける同人活動も個人サイト時代とは異なり「管理人&コンテンツを生み出す人」という役割を取る必要もなくなった。謎の同盟サイトを、トップページにぺたりと貼り付けることもない。

われわれは、どこにも所属していないし、何の役割も担っていない。
私という個人があって、推しCPの二次創作をしているうちに、周囲から「A×Bの二次創作をしている、きょうや」と認識されるようになり、やがて、同じような境遇の人たちと繋がったり、つながらなかったりする。

私たちは自由だ。
推したいものを推せばいいし。
書きたければ書けばいい。
ジャンルやCPは私の所属ではないし。「書き手」という役割を、自分からしょいこむ必要もない。

「えっ……!? そもそも私……"字書き"を名乗っていなかったの?!」

Twitterの紹介文から「字書き」みたいな文言を消したら、私たちはもっと、自由に同人を楽しめるかもしれない。

だから、私も自己紹介から、そういった言葉を消そう……と、思いながら、自分のアカウントを確認した……が

筆者のTwitterアカウントより

そもそも、私……自分が字書きであることを名乗っていなかった……

……? なんで?
これじゃあ、うまく、オチがつけらんないじゃん?!???!

「もしも、あなたが同人に居場所や生きがいを求めるなら……」

まずは、なにか、行動することだと思う。
行動とは、作品を書くことに限らない。
楽しい萌え語りをする人。
グッズ情報のまとめを作る人。
作品のレビューを書く人。
公式イベントの予定をカレンダーにまとめる人。
仲間との楽しみの場を作る人(ウォッチパーティーを企画するなど)。

Twitterを使って発信することで、私たちの言動は可視化される。
そして、それは、logとして残っていく。
その積み重ねによって、あなた自身の立場が作られていくし。あなたの存在を認めてくれる人が現れるかもしれない。

「その界隈とやらは本当に存在しているの?」

私は、二次創作における同人活動でTwitterを活用し始めて、まだ二年程度しか経っていない。
そして、同人を通して知り合った人と交流を持つようになったのも、今のCPにはまってからのことだ。

最初は、なんとなく「推しCP界隈」のようなものがある気がして。
「私の書くA×BはちゃんとA×Bかな……」なんて、悩んだりもした。

でも、好きなことを好きなようにやってたら。
なんか、書き手として認識されるようになって、気がついたら、推しCP仲間ができていた。

そして、気がつく。
「推しCP界隈」なんてものは、実は幻想にすぎないんだってことに。
だから、そこに属したいとか。
そこにおける自分の立場を気にする必要もない。

「界隈における主流の解釈」とか「自分の解釈が受け入れられないかもしれない」とか、そんなことを気にして、自分の好きなことを諦める必要もない。
好きなことを好きなようにやってれば、自然と自分の立ち位置が決まってくる。
「自分の解釈が受け入れられていない」と気に病む暇があったら、己の解釈をつぶやいて、つぶやいて、つぶやきまくればいいと思う。

Twitterというところは、不思議な場所で
「なにか一つのことにとらわれ、心を乱している様子」
が、一つのコンテンツとして好意的に受け入れられるフシがある(ファミチキのやつとか)。

仮に"界隈"というものが本当に存在していたとしても。
個人の力で"界隈"を変えるのは難しい。
でも、自分の行動を変えることはできる。
あるいは"界隈"というものに対する自分のとらわれを変えることもできるかもしれない。

認知行動療法では、うつ状態が重い人に対しては、「認知」ではなく、「行動」変容へのアプローチから開始するらしい。
同人における居場所の問題で悩んでいるなら、まずは、行動することから始めてみたらいいんじゃないかな。

ジャンルやCPは「所属先」じゃないし、書き手であることも、自分の「スタンス(≒役割)」じゃない。

やりたいこと、やれそうなことから、まずはやってみる。

そういう意識の持ち方って、趣味の世界といえど、案外大事なのかもしれない。

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