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・ 今日の周辺 2024年『鬱の本』と『冬の本』春を待つ間に

○ 今日の周辺
年末年始に10日以上も休むのは学生ぶり。胃もたれを抱えながら、のんびり過ごすことができた。三ヶ日を過ぎてからは喫茶店にいて、祖父母にメールを送ったり、読みたかった本を読み進めた。

○ 2024年 読みはじめ

点滅社『鬱の本』と 夏葉社『冬の本』

『冬の本』は在庫切れのようで、ひとまず図書館で借りたもの。

完成を楽しみにしていた点滅社『鬱の本』をようやく読む。
ページを捲るたび、「鬱」という個人的で閉鎖的な状態に対して一様でない異なる声が聞こえてくることがまず救いだと思った。自分の鬱にはいつも自分の声ばかりでうんざりする。

一編一編がそれぞれの「鬱」への返信のように読める。
この本は誰に語りかけているのだろう、とそれぞれが宙に浮いたような不思議な読み味。宛名のない手紙というのが一番しっくりくるだろうか。著者一人ひとりの繊細な側面について書いているから、その言葉はまずはきっとその人自身のために大切にされているし、そのことは自分ごととして読む、読者に寄り添うことも両立している。

人との「鬱」の違い。
気分としての鬱、病気としての鬱、憂うつと言う人もいるし、それが死にほど近く感じている人もいて、鬱との距離感、捉え方、手のつけ方がこんなにも人によって違うとは思わなかった。どうしても重さで測られるように思える病気に関することが、上下の関係だけでなく、重力をなしにあらゆる方向へ伸び得るのだということをこの本全体で表しており、気づかされる。それぞれの深刻さやつらさは比べられるものでない。私に心軽く感じられたのは、例えば、ここに言葉を寄せた84人が鬱のなかで出会した一瞬晴れ間を見るような経験を、これから自分にもできる可能性がある、鬱からずれる方法はこれだけ多様に可能かもしれないのだ、と予感できたことにある。もちろん誰も同じ経験と塞ぎ方をしてはいない。けれど、独り塞ぎ込んだ経験のある人に一瞬でも心がすっとした瞬間があったのだと知ると私も何か心ほっとしたのだった。厚い雲が自分の上でじっとしている間がとにかく苦しい。ひとまずはそれが一過性のものでもある、と思えることが、一旦今をどうにかやり過ごすことができるコツみたいなものであり続ける。だからその数は多い方が安心。

鬱の底にいるときは本を読むことも本当に大変なことで、それでも、誰に会える状態でない自分をひとりっきりにしないために本を開いた。誰でもない本になら硬く閉ざした胸を開くことができ、本に言葉をもらうことで返すことができる、そうして少しづつ自分の言葉を取り戻していった。

普段いくつもの鬱に耳を傾けることはなく、鬱のことを細かに言葉にして誰かに聞いてもらうということも多くはない。気まずい感じになってしまうのは心苦しいということが先行するし、なかなかそういう話にはしづらい。
この本は積極的に鬱について話してくれるから、自分も鬱について積極的に返そう、と思える、本と自分のトークテーマが一致していることで、先に先に進むことができる。

青木真兵さんが「鬱は(物体や身体といった「面倒臭いもの」を排除することに対する)アラームだ」と書いていた。
現行の社会は「物質や身体といった「面倒くさいもの」を排除」していて、その構造の中で「排除する側」こそ「人間」であると定義されているのだとしたら、人間であるにもかかわらず物と同じに「排除されている」と感じている人がいるのではないか、鬱はその抑圧や苦痛への「アラーム」なのではないか、と解釈した。
物として扱われていると思うことには、コミュニケーションや意思の確認を省略される、行動の速度自体について指摘される、などがあるだろうか。

誰もが、鬱に対する鍵のような言葉や、お守りにしている本を持っているということを知ることができるだけでも何か胸がいっぱいになる。些細なものであったり、偶然であったとしても鬱に対して異なる術を持っていることを知れたことが嬉しく、自分自身の(誰かの)鬱に対して、これだけじっくりとした言葉で向き合える人が、世の中に散らばって生きているのなら、少し大丈夫に思える。


夏葉社『冬の本』も続けて読む。『鬱の本』はこの本にインスパイアされて作られた本だそう。
冬は「休養」の季節のように認識されているように感じた、動物たちの冬眠、のように、活動を休めて屋内での営みに意識を向け、身を落ち着けるような。『鬱の本』を読み終えて、何か心細く、『冬の本』があって良かった。


○ これから、
さまざまな困りごとが自分だけに収まらなくなり(そもそも障害や病は自分だけでなるものでないし、収まるようなものでもなかった)通院を始めた昨年から、ようやく自身の持つ気質や特性について距離をとることができるようになった感じがある。そのいずれもが否定的に捉えられるものでないのだ、と信頼する他の当事者の認識や言葉に触れたこともその後押しとなった。
昨年は自分が抱えるものを他者に少しづつ手渡して自分の行動とその責任を分担することを意識し、調整したり、代わりにブレーキを踏んでもらったりと、委任することの安堵感や快さを実感する1年だった。どこまで、どれだけ具体的に、家族でない他人を頼っていいものか、と、そのことが依存的になってしまうのではないかと案じていた一昨年までのこれまでから大きく翻った心地。
障害や病についての認識やその具体性は現状個々人の経験と理解によっている。社会的な一般認識が「気にすることじゃないよ」みたいな一見寄り添っているかのような無関心や排他的なものであると予めわかるからこそ「私」だけの領域の問題なのではないかと、主観的にも客観的にも押し込められがちだ。障害の直面には先天的な要因もあれば、必ずしもそうでない環境的要因だってある。そのことは別々に対応される必要があるのだけれど、そのどちらもに他者の存在が不可欠だと思う。
「私」の個人的な挫かれ(学習性無力感)やトラウマの具体性に関係のない他者に、そのことへの理解をどのように得るのか、ということがまず大きな壁として立ちはだかる。どのように言葉にすれば伝わるだろう、どれくらい噛み砕くか、そのことが伝わるまでにはどれだけの時間が必要だろうか、個人的な経験を伝えることにそれだけ時間を割いて、待ってもらうことができるだろうか。伝えることのあらゆる要因に確信を持つことができないのは、日常的な会話にトラウマや、言葉に詰まるような話題は馴染まず、何か覚悟をして話し、聞いてもらわなければならない、とまず想定するところで立ち止まるからではないだろうか。
トラウマを語ることは、当事者個人だけに任せられるような重さをしていないと私は思う。

何度かのカウンセリングを重ねた上で、投薬治療と具体的な治療薬を進められて以来心療内科には行っていない。誰もに投薬治療が向いているわけではない、ということは知っていて、投薬治療の目的が、薬が効いている間に「できない」ことを克服しそのコツを徐々に掴んでいく、ことならば、その状態を現状自分ができることで代用できたほうが、寛解への道は近いのではないか、と思える余裕があったから。それはラッキーなことなのだと思う。

通院していなければ、問題がない、それほど困っていない、と、投薬治療や診断書の存在、医療機関を頼ることが、困難を他者に証明できることであるように思えて通院を辞めてしまったことに何か負い目があったけれど、困っているなら通院しろ、というのは困難を抱える人に対してとても乱暴な言説であるし、それは「完治」を前提とした知見でもある。私は少しでも長く安定した「寛解」の状態を維持できるよう、認知行動療法を検討し続け、工夫しながら行い続けている、と、そのように他者にも言うことができる。その上で理解してもらうことができないとしたら、それは私の責任ではない。

仕事を終えて年末、職場に対して少しでも温かい気持ちが湧き上がるのは、学生以後に所属したコミュニティの中で1番自然体というか、自分を隠さずに済んでいる、自分の困ったところを自分の内側だけに押し込まずに済んでいる、という感じがあるからだと思う。障害や病気、不調に関する自己開示って職場とか必ずしも関係が近くない間柄の人にどこまでするかっていつも迷うところだけれど、自分が困っていることを上手でなくとも話すことで、フォローが必要であると気づいてもらえ、ケアの必要性に一人ひとりが意識的になる。そうして他の人も困りごとを話しやすくなったらいいって思えば、これは私1人の問題ではないって思えた。
この春で転職して1年になるけれど、自分のマイノリティ性を忘れることなく社会と関わるということの齟齬とかどこまで合わせればあとは力を抜いていいかとか、少しコツが掴めてきた感じはある。
今年はより不可視化されてる領域に関して私がフォローアップしていくことができたらいいなと思っている。個人的には、仕事をする自分に適応しすぎたことで情緒的なことに感じ入ることが少ない1年だったので、もっと自然環境の移り変わりや景色など非人間存在の変化にも心を向けていきたいところ。

それと。私の「好き」という気持ちは、信頼できると感じたときに湧き起こるのだとわかった。その人個人と何らかの契約したとしても、その人の優しさを独り占めできるわけではないし、したいわけでもない。私はその先にもできる限りの間、対等で信頼し合うことのできる関係を続けたいと願っている。そうして、相手にはずっとそのように、私だけでない誰に対しても信頼足りうる深い愛情を向け続けてほしい。そのような姿を自分の周囲で観測できるだけで私は十分に満足することができるし、心強く感じ、生きやすい。

今年は、自身の特性について「他人に迷惑をかけ得る」ものとしてでなく、ときにそうなることがあるとしても、ただ「人と異なっている」くらいに捉えて、この身体で経験することの特異性や独自性をもっと私だけで楽しもうって思っている。どこまでが自分の責任であったのかがわからず塞ぐこともあるけれど、それよりもこの身体は楽しい。

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「きのう何食べた?」のシーズン2が昨年末で終わってしまったと心細く思っていたら「作りたい女と食べたい女」が始まった。シーズン1は見ていなかったので再放送で観る。
連休から日常に戻っても、並行して歩んでくれる物語があると、まずは毎週が、なんとかなる。

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