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・今日の周辺 2023年 ずっと自分のことを待ってる

◯ 今日の周辺
4月に勘違いをして浜離宮庭園に行ってから(勘違いだったとはいえ楽しかった)、しばらくしてようやく六義園に足を運んだ。

おそらくいつも季節の方がやってきているのだけれど、歩いていたらふと夏に着いていた、みたいな感覚だ。
あ、夏の駅だ、夏の道だ、季節が移れば目に映るものもがらっと変わって新鮮に感じられる。まるで場所ごと違うみたいに、その印象から自分の中に浮かび上がる過去の記憶の時代も異なる。夏ならよく祖父母と過ごした就学前の頃、春なら学生時代、秋なら20代に入ってからの友人との散歩道、冬は、いつも家にこもって何かに黙々と取り組む。自分の物事の記憶の仕方なのか、しまい方なのか、壊れているのか、よくわからないけれど時間はあちこちに飛ぶ。それが自分でいつも新鮮に感じられて楽しい。

六義園、これまで足を運んだ場所とは違っていて驚いて、感動があった。
空を薄い雲が覆った明るい日。程よく風もあって、散歩にぴったりの日。おにぎり握って持ってきた。駒込駅、はじめて降りる。

回遊式庭園、確かに、同じ園内にいるとは思えないほどに様々な風景を内包している。
中央の池、そしてその周りを小高い丘が囲い、その周りは薄暗い雑木林になっていて、水路も巡っている。
池を細長く曲げて伸ばせば川のように見え、それが中央の池にたどり着けば海のように開け、妹山、背山という2つの中州は島のように見える。
藤代峠からは全体を高くから見下ろせる、飛び石があり、滝があり、東屋があり、小さく見立てて作られた風景の簡易的に省略されたものとは思えない妙なスケール感と(非)現実感も面白く感じられた。
気持ちががらりと変わって、どこか夢の中、実在しない場所へ旅行に来たかのような開放的な気分になった。

ぐるっとじっくり、八十八境(残っているのは32ヶ所)の石柱を探しながら一周回って、ベンチに座って『三人の日記 集合、解散!』読んだんだった。
文字を辿るだけで、私にもたくさんのことが思い出される。葉擦れ音が気持ちよく、今日来てよかったなと思う。おにぎり食べているとムクドリ寄ってくる、がすでに何か咥えている。

明るい時間がぐんと長くなった。
六義園からの帰り、駒込駅から山手線で『三人の日記 集合、解散!』を読み続けたく、読み終えるまで電車に乗っていた。

伝わる言葉は目の前にいる人のために大切だけれど、伝わらない言葉もまた、まだ目の前にいない人のために大切にしたい、と思う。


◯ あれこれ

上半期を支えてくれた本

転職活動の最中を『病と障害とその傍にあった本』、転職してからの通勤時を國分功一郎『暇と退屈の倫理学』、中見真理『柳宗悦 「複合の美」の思想』が励ましてくれていた。
残業終わりに、23時までやっている地元の書店で寺尾紗穂さんの新刊『日本人が移民だったころ』を買った。それを読むのが今は楽しみ。


市川沙央『ハンチバック』
7月の初めに本屋で買って、その日のうちに読んだ。
誰もが直面すると思われる生きていくことにまつわる避けることのできないことへの向き合わされ方が、どれもこれも異なっていて、そのことがこれだけ書かれているのに、わからないことばかりで困惑する。

「インクルーシブ」という言葉を自分なりにどう捉えることができるか考えてみる。
私自身が多少の障害に直面しつつ働きながら、周囲で働く人に困難が感じられない、詳らかにされにくく隠されたままの健常者中心の社会で働くことが毎日繰り返されることは、私以外の、私より困難な障害や病を抱えて生き続けている人の存在を忘れさせてしまう。現状、ここで働くことは難しいであろうと思われる人たちのことを忘れさせてしまう。
私が健常者社会をどうにか生きて、健常者優位で病や障害や老いなどのやがて誰もに訪れるものが「ない」ものとして扱われている世界に取り囲まれていたとしても、自分が言うことや創作や表現の中で、自分の周囲にあるものをないことにしたくない。それは正直に自然体でいる自分自身の存在を自分自身で軽んじたり否定したりすることにつながることだと思うから容易には「できない」ということでもある。

今の会社、部署で働くと想定されるのはバイタリティーのある男性、だけであってはならない。希望した「職場」であったにもかかわらず、その場の「人間関係」のなかで知らずのうちに淘汰されてしまった人を「この職場に合わなかった人」と認識して済ませてしまうのはあまりにも杜撰であると思う。そのことにも、何か「もう強い人しかここにはいない」と思わせる心細さや寂しさがあると思われてならない。
とか、今の自分の立場から思われ、考えられることと照らしてみる。


金川晋吾『いなくなっていない父』
エッセイを読むことを通してその人のことを知っていくことはいつも不思議。これまで全く知らなかった人のことを、その人に会って話すこと以上に、その人がいない間に日記を盗み見るようなかたちで、出来事と思索、考えの変化の連なりの中に、十数年のことを数時間のうちに自分の中に辿ってしまう。金川さんは、百瀬文さんのインタビューの中で同居人として、六本木クロッシング2022展:往来オーライ!で伯母の写真を撮っている写真家として、そして『三人の日記 集合、解散!』の1人として、その日記本を読む中でようやく1人の同じ金川さんであることが自分に認識されたという出会い方をした人だった。

金川さんの文章に少し驚く。
というのも、『三人の日記 集合、解散!』で執筆にまつわる迷いや戸惑いについて述べているのを目にしていたから。
本当に、迷いながら書いたのだろうか、と思うところからだんだんと、迷いながら書いたのだろうな、と思える文章に感じられる。その両面が嬉しい。
その都度の時代背景の事実性(客観的視点)と、自分を含む家族一人ひとりに対する主観的であり、冷静に振り返ろうとする視点の均整が周到に取られているとも感じられた。出来事により記憶が想起され、思考に至る、そのことが連なっていて日々の中に繰り返される、そのように、そのままに綴られているように読むことができた。

本文中、NHKの取材が始まって、取材を担当する数人が金川さんと「父」の関係を目にして、その関係性に対してそれぞれの主観的な思索や考えが固まっていくなかで、第三者から投げかけられる言葉に反応する金川さんの心境の変化や揺らぎに、ああようやく金川さんがあらわれた、という感じがあった。ここまで何か周到に、丁寧に、綴られてきたものが、他人の目を通してようやく、その人らしくなった、という感じがあって、面白かった。小説が今目の前で現実になったのでハッとさせられたかのような。
「血縁関係」にあることで「似ている」と言われたり、類似性を見出されたりすることについては巻末に書かれていたことだけれど、その何か、自分で自分をどれだけ丁寧に冷静に描き出そうとしても、そのことが客観的なイメージとはズレている、ということに関わるところに金川さんと「父」が重なるものがあるのではないか、とも思われた。

「誰かのことを「好き」になることがもうほかの人のことを「好き」にはならないことを意味するということにしっくり来なかったりするのですが、そもそも一般的な好意と、そういう好意とは一線を画した恋愛的な意味での特別な「好き」というものの境界線が曖昧だったりします。
ずっと続く関係を目指すことよりも、むしろ変化を許容するような関係のほうが自分にとっては居心地がいいような気がしています。最近、そういう自分の気持ちというかありようがだいぶわかってきました。自分みたいな人はほかにもけっこういて、そういう人たちとお話することで、自分のことがわかってきたというのもあります。」

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とにかく暑い。
まずは身体を第一に、無理せずやろう。お盆やすみもすぐそこ。

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