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じぶんのこと。~理学療法士を目指したわけを、改めて振り返る~

はじめまして。キョウノミチといいます。
以下、簡単な自己紹介と、自分の進路を決めた経緯について書きます。


コレマデノミチ。

医療従事者とプロフィールには記載しているが、正確には結婚退職後、臨床経験のない理学療法士である。経験が少ないことを引け目に感じ、堂々と名乗れない。

夫の転勤で引越を繰り返し、息子が誕生し、親が持病で入退院を繰り返すようになり、介護にも直面するようになった。次から次へと目の前にすぐに対処しなければいけないことが起こり、完全に仕事復帰しそびれてしまった。そして現在、整体のサロンを開業している。少しずつではあるが、今の自分ができることを、ようやく見つけることができ、今に至る。


どうして理学療法士を目指したか、について振り返ってみる。

20代まで、大きい病気もケガもしたことのなかった私は、病院にお世話になることがほとんどなかった。同僚には、自身の入院や、スポーツによるケガで理学療法士のリハビリを経験している人が多かったから、珍しいねと言われた。

言われてみると、自分でも不思議だった。高校生の時、どうして理学療法士になりたいと思ったのだろう。両親から反対されても、それ以外は考えられないと主張し続けたのはなぜだろう。

きっかけはあのときだったのかもしれない

高校2年生のとき、小柄な中学生の女の子と、一時期同じ車両に乗り合わせていた。その時期は文化祭だったか、それとも朝の補習だったか。いつもより早い時間の電車に乗って学校に行っていた。

彼女は中学校のときの先輩の妹さんだった。顔立ちが、なんとなく先輩と似ていたのと、耳につけていた補聴器とでわかった。

彼女は耳が不自由だったが、公立の小学校に通うことができたと、先輩から聞いたことがあった。

電車がホームに入ってくるのを待ちながら、彼女の後ろ姿を見ながら、

中学校は近所の公立じゃなかったんや。
友達と離れて、ひとりで通ってるんや。

耳が不自由な「だけ」で、今まで仲良く一緒に登校していた友達と強制的に別れてしまうことに、理不尽さを感じた。

正しくは、私の中にあった、理不尽さに対する反発心が刺激されて、心の奥がモヤモヤしたのだった。

ハンディキャップについて意識したのは、このときが初めてだったと思う。

自分に負けた感にモヤモヤする

私が入学したのは、地方の公立高校だった。入学したその日から、「国公立大学を目指しましょう!」と先生方が口々に言われたのに辟易とした。

県監修の分厚い問題集が指定され、毎日毎日膨大な量の宿題が出た。

自分のペースで、自分がやりたい勉強をしたい。でも宿題が多くて、明日までに片付けないと授業に間に合わない。余計なことを考えている暇はない。
だんだん自分が意思のないロボットのような感覚になっていった。自分のことなのに、ベルトコンベアに乗せられているような、誰かの力でずっと背中を押されたまま無理やり走っているような感じだった。

自分は受験に負けていると感じていた。いや、負けているとは思いたくなかった。高校の先生は成績しか見ていない。私個人のこと、どれだけ知ってる?そもそも顔を見ても誰かわからないんじゃないの?
数字で自分の価値が決まってしまうようで怖かった。数値化できない自分の良さだってあるんだと拗ねてみても、言い訳にしか聞こえない。そんなことを言えば言うほど、出来ないヤツのたわ言には哀れささえ漂ってくる。
ここで結果を出せる人が、将来成功するんだろうと思っていた。

この理不尽さをどうにかしたい

そんなとき、先ほどの中学生の彼女の姿を見て抱いた理不尽さと、自分の中に抱えていた理不尽さとを、勝手に重ね合わせたのだと思う。

この理不尽さをどうにかしたい。
そんな思いだけで突き進んでいったような気がする。このときに生まれたパワーが動機となった。

そして、その頃に理学療法士という職業を知った。明日からどう生きていこうか、道を見失っている人に方向を指し示す職業(と、解釈した)。まだ高校生だった私は、これが自分のやるべきことだと、使命感に燃えた。

今思えば、道を見失って絶望していたのは私だった。寄り添ってほしかったのも私だった。

患者さんの明日のために頑張った仕事だったが、同時に、自分の明日も探していたのだと思う。

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