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オッペンハイマー

映画館で「オッペンハイマー」を観て来ました。

原爆を題材にした映画に対してこんな言い方は不謹慎かもしれませんが、とても良い映画体験でした。
個人的には、素晴らしい映画だと思いました。

(DVDやネット配信じゃなく)映画館で映画を観る動機って、2つあると思うんですよ。

1つ目は、「作品を観たい→だから映画館に行く」
まず特定の作品に興味があって、それを観るために劇場へ足を運ぶパターン。

2つ目は、「映画館へ行きたい→そのために作品を選ぶ」
「何となく今日は映画館に行きたいなぁ」っていう気持ちが先にいて来て、それから「どの作品にしようかな」って映画ドットコムを開くパターン。

最近は後者のパターンが多いです。

今回も、まずは映画館に行きたいという欲求が先にあって、それから観る映画を決めました。

で、何を観るか? という段階に移りますが、やっぱりここでも2パターンに分かれるような気がします。

「壮大な叙事詩が観たい」

っていうパターンと、

「ちょっと気の利いた感じの、小ぢんまりとした作品を観たい」

っていうパターン。
今回は前者でした。
それで、映画ドットコムの「上映中の映画」項目を開いて、この「オッペンハイマー」に行き当たりました。
いろいろと評判になっている映画でもあるし、じゃあ、観てみるかと劇場へ向かいました。

あらかじめ分かっていた事ですが、公開末期だったため席数が百数十しかない小さなスクリーンのみの上映でした。
お客さんの入りは15人くらいだったと思います。

映画本編が始まって、すぐに後悔しましたね。

「あ、これは IMAX で観るべきだった」って。

しょぱなから「どどーん」っていう爆音が鳴り響きます。
やっぱり小さな劇場では迫力が不足していました。

本編上映前、
「関心領域 The Zone of Interest」
と、
「エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」
の予告編が連続して流れました。

アメリカとヨーロッパの映画界で「ユダヤもの」というジャンルが成立しつつあるのかも知れません。
それが良い事なのか悪い事なのかは、ちょっと僕には分かりません。
この「オッペンハイマー」も、見方によっては「ユダヤもの」ジャンルですよね。

主人公オッペンハイマー役の人、どこかで見た事あるなぁ、と思ったら「レッドライト」の人でした。
キリアン・マーフィー。
「バットマン・ビギンズ」「ダークナイト」にも出てましたっけ?
ああ、そういえば出演していたか。
「レッドライト」の時はシガニー・ウィーバーの助手役で、いかにも「若造」って感じでしたが、老け役をやるような年齢になったんですね。
現在(2024年)47歳かぁ……(遠い目)

年齢と言えば、この映画は伝記ものですから、主演のキリアン・マーフィーは大学時代から老年期まで幅広い年齢を1人でこなします。
その年代ごとの顔が、わりと自然でした。
特殊メイクなのか、それともCGとかAIとか呼ばれる技術なのかは分かりませんが、大学時代を演ずるキリアン・マーフィーは(ぎりぎり)大学生に見えましたし、青年期・中年期・老年期、それぞれ違和感なく見られました。 

カラーのパートと白黒のパートがあるのですが、カラー・パートの色が独特でした。
「コダック色」というのでしょうか、写真で言えば「アメリカン・ニュー・カラー」的な印象です。

てっきり、デジタル撮影したデータの色調を変えてコダック・フィルムに似せているのかと思ったら、エンド・ロールの最後に「コダック」のロゴが描かれていました。
デジタルで「フィルム風」の処理をしてるんじゃなくて、本当にフィルム撮影だったみたいです。

それでは、これからネタバレありで感想を述べます。

ネタバレ注意!


(少し、間を空ける)

** 日本の描写が無かった事について

とくに日本国内で、「広島と長崎の惨状が全く描写されていない」という批判が有ります。
一方、そういった批判に対して、「これは人間オッペンハイマーの半生を描いた伝記映画なんだから、広島・長崎の描写は必要ない」と、映画を擁護する人も居ます。

この映画を観るまで、僕は「どちらの意見も有りうるだろうな」と思っていました。
「広島・長崎を描写すべき」という人の気持ちも分かるし、「この映画の本筋じゃないから必要ない」という意見も分かる。

実際に映画を観た現在は、どちらかと言えば前者寄りの立場でしょうか。

「絶対に描写すべき、とまでは言わないが、描写しないのは不自然」

というのが僕の意見です。
なぜ僕がそういう意見に至ったかというと、

「被爆地の写真を観て、オッペンハイマーが目をそむける」

というシーンが有ったからです。
ここだけ間接描写になっているのが、さまに不自然でした。
映画全体の演出トーンに対して、このシーンだけが浮いちゃってるんですよね。

一般に、映画で間接的な描写が採用される理由は2つだと思います。
1つ目は、観客へのショックをやわらげるためです。
つまり仕立てを上品にするためですね。

でも、この「オッペンハイマー」は、乳首もろ出しセックスを堂々と描写するような作品です。
砂漠での爆発実験シーンでは、フェティッシュなこだわりを発揮して、そのすさまじさを描写しています。
なのに被爆地の写真をオッペンハイマーが見るシーンだけ、「目を背ける主人公」のカットでお茶を濁しています。
なんか急に、表現に対して臆病おくびょうになってしまった、引っ込み思案じあんになってしまったみたいです。
「CGを使わず本物の爆発にこだわった」などとドヤ顔で自慢している爆発実験シーンとの釣り合いが取れていません。

描写を間接的にする理由の2つ目は、「現代の技術で描写するのは不可能だから、あえて描写しない」です。
どんなに頑張っても直接描写には物理的な限界があります。
だったら、いっそ、俳優のリアクションだけを映して観客に想像させた方が大きな効果が得られるだろう、という目論見もくろみです。

あくまで僕個人の想像ですが、この映画に関しては、やっぱり後者の判断が働いたのかな、と思いました。
「敬して遠ざけ」ちゃったのかな、と。

「どうやっても原爆の惨状を表現するのは無理だ」という判断で、ああいう間接表現になったような気がします。
それは悪く言えば「逃げ」です。
でも何だか僕は、監督を責める気になれません。
もし自分が監督だったら、どんな選択をしただろう? と自問自答してみました。けれでも、簡単には答えが見つかりませんでした。

ハリウッドの最新技術をもってすれば、ひょっとしたら「ものすごくリアルな被爆地」を作り出せるかも知れない。
だとしても、どんなにリアルでも、それは「良く出来た偽物にせもの」に過ぎない。
なぜなら観客である僕らは、目の前に映し出されているのが偽物だって知っているんですから。

本物のライブラリ映像を使うという手法もあるでしょう。
それだったら可能性があるようにも思えます。
しかし僕はこの作品の監督じゃありませんから、本当にそれで上手く行くかどうかは判断できません。

ただ1つ言えるのは、たしかにあの「写真から目を背ける主人公」のシーンには違和感を覚えた、演出上の瑕疵かしがあると感じた、という事です。

僕が着目しているのは演出上の問題であって道義上の問題ではないけれど、「被爆地の惨禍が描写されていない」という批判意見には、うなづける部分がありました。

そういえばスパイク・リーがこの件に関して何か言っていたなぁ、と思い、検索してみました。

毒舌家のリー監督の事だから、どんだけクソ味噌にけなしてるかと思ったら、全然、悪く言ってないんですね。

「自分だったら、こうする」という発言と同時に、ノーランの仕事に最大限の敬意も払っているんです。
「僕だったらこうするけど、君が違う判断をしたなら、それはそれで尊重するよ」っていうスタンス。
毒舌家のスパイク・リーをもってしても断言を避けざるを得ないほど、「被爆地を表現するか、しないか」は、意見の分かれる悩ましい問題だったという事でしょう。

** 時代を行ったり来たりする件

時代を行ったり来たりする件で少し混乱している人も居るみたいですが、僕はそれほど困りませんでした。

オッペンハイマーという人物に関してほとんど何も知らないまま映画を観ました。
それでも大体の流れは分かりました。

1947年にプリンストン高等研究所の所長に就任し、そこでストローズと出会ったという描写が物語の冒頭にあります。
だからストローズなる人物は戦後にしか登場しないと分かります。

水爆の開発に関するレストランでの会議も戦後間もない頃でしょう。
世界初の水爆実験が1952年、終戦の7年後です。
レストランでの会議は「水爆開発やるか、やらないか」が議題ですから、かなり早い段階だと考えるべきです。
プリンストン研究所所長就任後まもなくといった所でしょうか。
小部屋での聴聞会は赤狩りに関係するものですから、それより少し後のはずです。おそらく1950年代に入ってからでしょう。

いちばん分かり難かったのは「ストローズ商務長官指名に関する公聴会」がどの時代だったのか? です。
それでも映画の半ばあたりまでには、公聴会が一番最後のイベントなんだと分かりました。

あと、兵器転用可能な装置をオッペンハイマーがソ連に輸出した件で公聴会が開かれていましたが、あれとストローズ商務長官選任の公聴会は、ちょっと混同しちゃいますよね。

学生時代~爆弾投下の前後関係は、そんなに困る事もなく理解できました。
徐々に出世の階段を昇って行くだけですから。
常識的に考えて、ロスアラモス時代が学生時代より前のはずがないですよね。

わりと時代を行ったり来たりする作品で、その整理に多少は頭を使いますが、僕はこれで良かったと思います。

学生時代から老年期まで1本調子で真っぐ進行していたら、まあ、それはそれで観易みやすかったとは思いますが、せいぜい「普通に良い作品」止まりだったんじゃないかなぁ。
時代のシャッフルがあったからこそ、印象深い作品になったんだと思います。

余談ですが、時どき出てくる「アクセス許可」っていう字幕、英語では「セキュリティ・クリアランス」って言ってますね。

** ストローズはマクガフィン

時どき白黒映像になる意味が、最初は分からなかったんですよ。
で、途中で気づきました。
そうか、ストローズが主役のパートは白黒なんだ、って。

じゃあ何でストローズのパートは白黒なのか? っていう話ですけど、これも途中で気づきました。

「白黒パートは物語の本筋とは関係無いし、意味無いから、気にしなくても良いよ。忘れちゃってOKだよ」

っていう、監督からのサインなんですね。

時代を行ったり来たりする複雑な構成ですから、観客の読解力の負担を少しでも軽減する必要があったのでしょう。
本筋とは関係の無い脇道の話を白黒表現にする事で、

「このパートは映画全体にとって『おまけ』みたいなものだから、忘れちゃっても良い部分」

って、分かりやすく区別してくれてるんですね。

確かにロバート・ダウニー・ジュニアの演技は素晴らしいです。
その演技を観ているだけでも「良いもん観たな」っていう御得おとく感があります。

演技の素晴らしさとは対照的に、彼が演じたルイス・ストローズなる人物の存在感は極めて軽いです。
最後の公聴会なんか、いきなりポッと若い科学者が現れて「あの男は悪い奴です」って証言して失脚、ですからね。
お前、誰やねん、っていう。
これぞまさにデウス・エクス・マキナ。

だいたい、この最後の公聴会って何のドラマも葛藤もありませんよね。
公聴会が開かれました。商務長官に任命されると思っていたら、ポッと出の若い科学者が証言して、そのせいで失脚しました。っていうだけの場面。

じゃあ、このストローズっていう男の存在意義は何かっていうと、端的に言って「人間マクガフィン」です。

物語のテーマにとって何の意味も無い小道具、ただ物語を進行させるためだけに存在する小道具のことを映画用語でマクガフィンと呼びます。
ストローズは小道具じゃなくてキャラクター(登場人物)ですけど、この映画の中での役割・機能は、まさに「マクガフィン」です。

現代のプロメテウスであるオッペンハイマーは、神の火を盗んだ罪により、ゼウスから罰せられる必要があります。
しかし、まさか本当に空からゼウス様が降臨してオッペンハイマーを罰する訳には行きませんから、神に代わって現実に彼を責めさいなむ存在が必要です。
それが赤狩り時代のアメリカ政府でありFBIです。
彼らに密告して秘密聴聞会を行うよう仕向けたのがストローズ。
つまりストローズは単なる切っ掛けです。
「聴聞会の切っ掛けを作る」
ストローズという登場人物の機能は、これだけです。

主人公オッペンハイマーとストローズが直接対面しているシーンは、映画全体を通して、ほんの数回です。
その数回のシーンにしたって、オッペンハイマーとストローズは全く対等ではありません。
ヒーローとヴィランのように対等の立場で闘争している訳ではありません。
オッペンハイマーが天才特有の無邪気な無神経さを発揮してストローズを侮辱し、その結果ストローズが憎しみをつのらせて行くだけです。
オッペンハイマーは自分がストローズを侮辱した事にさえ気づいていない。
だからストローズの恨みは一方的です。片思いならぬ片恨みなんです。

端的に言って、ストローズのやっている事はただの「ひとり相撲」です。
ストローズが何を言いおうと何をやろうと、オッペンハイマーの眼中にさえ入っていない。
オッペンハイマーのキャラクター曲線に、何の影響も与えられない。

裏で手を回して聴聞会を開きオッペンハイマーを苦しめた事で、ストローズは「どうだ、思い知ったか!」と溜飲を下げたかも知れません。
しかしオッペンハイマーが苦悩している本当の原因は、共産主義者の疑いをかけられたとか、そのせいで社会的に抹殺されたとか、そんな所には有りません。
前述の通り、彼は神から火を盗んだ罪によって罰せられ苦しんでいるんです。それが彼の内面です。
彼の苦悩は、ストローズの小賢こざかしい策略とは何の関係もありません。

この物語にけるストローズの役割として他に考えられるのは、せいぜい、凡人・俗物っぷりを発揮して、天才オッペンハイマーの存在を際立きわだたせるという機能くらいでしょうか。

天才と凡人の物語と聞いて、真っ先に思い浮かぶのは「アマデウス」です。
ひょっとしたら作り手もストローズの造形に当たって「アマデウス」のサリエリを参考にしたかも知れません。

僕の印象を言うと、確かにこの映画のストローズは「アマデウス」のサリエリに少し似ていますが相違点も多いように感じました。
映画「アマデウス」に出てくるサリエリは凡人というより「中途半端に才能を持ってしまった男」です。
うろ覚えですが「アマデウス」のテーマの1つは、
「中途半端に才能を持つ男が、本物の天才をの当たりして抱えてしまった苦悩」
だったと記憶しています。
サリエリは正にその体現者ですから、「アマデウス」の物語にとって、もうひとりの主役と言って良いくらいに重要な存在です。

ひるがえって「オッペンハイマー」の物語に於いては、「オッペンハイマー対ストロース」の対立には大した意味がありません。
前述の通りストローズには、
「オッペンハイマーを責めさいなむ聴聞会の切っ掛けを作り、物語を前に進める」
という機能しかありません。
単なる「人間の姿をしたマクガフィン」です。

白黒パートは所詮しょせんサイド・ストーリーと割り切って、ただひたすらにロバート・ダウニー・ジュニアの素晴らしい演技を堪能し、色の付いたメイン・ストーリーに戻ったら白黒パートの事は忘れてカラー・パートに集中するのが良いと思います。

1、オッペンハイマーはストローズを侮辱した。
2、ストローズはそれを恨んで裏で手を回し聴聞会を開いた。
3、最後の公聴会で悪事を暴かれ、ストローズは失脚した。

ストローズという人物に関しては、この3つだけを憶えていれば充分です。

** 前半の印象

前半は「まあまあ」程度の印象でした。

映像も演出も編集もすばらしいけど、それによって語られるストーリーは、まあ、よくある伝記ものだよね、くらいの感じでした。

天才ゆえにブッ飛んだ性格の若者が、最初は社会の片隅でくすぶっているんだけど、ある出来事を切っ掛けにドンドン成り上がって行き、ついには社会を変革するほどの大事業に挑戦し、その成功をもって人生のピークを迎え、以後は逆に没落していく。

伝記映画って、だいたいこんな感じですよね。

ちなみに、僕も10代の頃は天才少年だったんで、数学の先生が黒板に書いた二等辺逆三角形を見ながら脳内で同級生のパンティをスパークさせてました。
あ、僕は今でもピチピチの10代で現役バーチャル男子高校生です。
念のため。

マンハッタン計画が発動して以降も、大して印象は変わらなかったです。
よくある「ビッグ・プロジェクト成功物語」だよね、という感じでした。

強烈な個性のリーダーが、全国に散らばったエキスパートたちを1人ずつスカウトして1か所に集め、チーム・メンバーそれぞれが得意分野で能力をいかんなく発揮する事で徐々に成果が積み上がっていく。
目標に向かって着々とプロジェクトが進行していくにしたがって、観客の心も高揚していくように演出する。

時どきガラス鉢にビー玉を入れるカットが挿入され、徐々に溜まっていくビー玉がプロジェクトの進行度合いを表しているっていう演出も、手堅いっちゃ手堅いけど、よくある手法ですよね。

** ヒットラーの自殺

前半の印象は「確かに良く出来ている映画だけど、噂ほどの傑作かなぁ」って感じだった僕ですが、あるイベント発生以降、座席から身を乗り出すようにしてスクリーンを見つめ、物語世界に没入していきました。

そのイベントとは、「ヒットラー自殺のしらせ」です。

このイベントの前と後ろで、ガラリと映画のトーンが変わります。
僕が思うに、この映画で一番重要な物語上の転換点は、「原爆実験成功」でもなく、「広島への原爆投下」でもなく、この「ヒットラー自殺の報せ」です。

ヒットラーの自殺というイベントが、前半の「ビッグ・プロジェクト成功物語」と「型やぶりな天才の成り上がり物語」を終わらせ、後半へ向けて、別の物語を始動させたのだと思います。

いざ、後半部の物語が始まってみると、前半部の高揚感を伴った「成功物語」は、後半に対する「前ふり」だったと分かります。
後半の悲劇的な展開を強調するための「落差」づくりです。

無邪気な科学的好奇心から原爆開発に邁進していたオッペンハイマー以下科学者たちは、ヒットラー自殺の報を受けて、はっと我に返るんですね。

「あれ? 俺ら、何のために原爆を作ってるんだっけ?」

そこで初めて、科学者たちは人類にとっての原爆の意義を考える訳です。
何しろ世界随一の天才たちの集団です。一瞬で「あっ」て気づきます。「あ、やべぇ」って。

もちろん、だからと言って原爆開発が中断されるような事は有りません。
確かに、ヒットラー亡き今、もはや対独・対日戦争が消化試合なのは誰の目にも明らかです。
しかし次の戦争がもう始まっています。
この時点では同じ連合国として並び立っているアメリカとソ連が、東西に分かれて対立する冷戦です。
その事は、(口に出して公言せずとも)アメリカもソ連も承知している。
アメリカのショー・ビジネス界には「Show must go on」ということわざがあると聞きましたが、それになぞらえれば「War must go on」と言った所でしょうか。

調べてみると、ヒットラーの自殺が1945年4月30日。
世界初の原爆実験が同年7月16日。
あと2か月半で完成するとしたら、ここでプロジェクトを中止するという判断は、なかなか難しいですよね。
科学者たちにも「せっかく、ここまで来たんだから、最後まで見届けたい」っていう願望は有ったでしょうし。
「とりあえず、作るだけ作っておいて、使わなきゃ良いじゃん。アメリカのお偉いさんだって、きっとそう判断するさ」
っていう甘い見通しも有ったと思います。

で、科学者たちは「人類にとっての原爆の意義」という問題を頭の隅へ追いやって、再びプロジェクト成功へ向けて邁進する訳ですが、物語のトーンは、「陽気で無邪気なサクセス・ストーリー」といった感じの前半部とは打って変わって暗く重苦しく変化しています。

原爆実験成功直後こそ、オッペンハイマーを肩車にかついだりしてアゲアゲなムードですが、すぐに暗いトーンに戻ります。

そして広島への原爆投下。
ジャップの頭上に新型兵器を落としてやったぜ、ヒャッハー、と喜ぶ人々とは対照的に、オッペンハイマーだけは事態の恐ろしさを痛感しています。
しかしバスケット・コートで聴衆を前にした彼の演説は「ジャップの頭上に爆弾落としてヒャッハー」です。
どうせ、こいつらに原爆の危険性をいて聞かせてもポカーンだろうし、わざわざ立場を危うくして真実を語ったところで何の意味もないから、ここは迎合するしかない。
でも大衆に迎合して、じゃあ、この先、どうすんの?

その後、一瞬ですが、会議室に集まった科学者たちが映されます。
お祭り騒ぎの中で、そこだけ空気がドンヨリとよどんでいます。

この時点で科学者たちだけが現実を理解しているのです。

** 戦後

戦後、オッペンハイマーは水爆の開発に反対し、その後アメリカに吹き荒れた赤狩りの最中さなか、その標的になり聴聞会で攻め立てられ、妻の前で愛人との痴態を暴かれます。

これは、表面的には、彼を恨んでいたストローズの策略によるものです。

しかし、オッペンハイマーの内面では違います。
彼の心の中では、この責め苦は彼の犯した罪に対する罰です。
罪とは、もちろん原爆を開発してしまった罪です。
神の火を盗んで人間に与えてしまったプロメテウスと同罪です。

その解釈を一旦いったん肯定しつつも、僕はさらにもう1つの解釈を提示したい。
これから話すのは、僕の考えた裏解釈です。

** 僕の解釈

戦後、オッペンハイマーは、
「この世界の物理法則は、俺たち人類に都合よく出来ている訳ではない」
という事実に恐れおののき、その恐怖にさいなまれていたのではないでしょうか?

別の言い方をすれば、こうです。

「世界は、俺たち人類を愛しちゃいない」

オッペンハイマーは一神教民族のユダヤ人ですから、こう言い換えても良いでしょう。

「全知全能の神は、俺たち人類を愛しちゃいない」

原爆開発を指揮したオッペンハイマーの道義的責任は一旦いったんわきに置いて、ひとつの思考実験として「オッペンハイマーの居ない世界」を仮定してみましょう。
オッペンハイマーさえ居なければ、あるいは原爆開発に関わったアメリカの科学者たちが居なければ、原爆の存在しない世界になったのでしょうか?

答えは「否」です。

そもそも、アメリカが原爆開発に乗り出したのは、ナチスドイツが新型爆弾を開発しているという情報を得たからです。
ウランの核分裂を利用して爆弾を作るというアイディアは、アメリカより先にドイツが思いついていた訳です。

ウランの原子核に中性子を当てると核が分裂して質量の一部がエネルギーに変換されるという現象は、1930年代末には既に、物理学者なら世界中の誰もが知っている、物理学界の常識でした。
この現象を使って強力な爆弾を作るという発想は、当時としても決して突飛なものではなかった。
いずれ、どこかの国の誰かが思いついた事でしょう。

アメリカがやらなければドイツが、ドイツがやらなければソ連が、ソ連がやらなければ日本が原爆を作っていたはずです。
実際、日本にもF研究と呼ばれる原爆開発に向けた研究計画がありました。
ごく初期の段階で敗戦により終了したようですが、湯川秀樹なども参加していたみたいです。
ちなみに余談ですが、湯川秀樹は、日本への原爆投下からわずか3年後の1948年、プリンストン高等研究所に客員教授として招聘されています。
オッペンハイマーの同研究所所長就任からわずか1年後です。
「hideki yukawa and oppenheimer」などで検索すると、2人が並んでいる写真が出てきます。

核分裂であれ核融合であれ何であれ、あらゆる自然現象、あらゆる物理法則は、人間の価値観とは全く関係なく、そこに存在します。
人類が誕生する何億年も前から変わらず存在し、未来永劫、これからも変わらず存在し続けるでしょう。
良いも悪いもありません。危険だとか安全だとかも関係ありません。所詮しょせんそれらは人間の勝手なレッテル貼りです。
自然現象も物理法則も、人類の幸福に対して責任を持ちません。
つまり「世界は、人類を愛しちゃいません
人間の都合とは関係なく、ただそこにあるだけです。

自然現象も物理法則も、それが人類にとってどんな危険をはらんでいたとしても、いずれ誰かに発見されます。
誰か1人が発見すれば、すぐに全人類の共有知識になります。
そして時間は過去から未来へ1方向にしか進みません。
映画のネタバレのように、あらゆる知識は1度知ってしまったら最後、もう2度と知らなかった頃には戻れません。
発見された原理を使えば便利な道具が出来そうだと分かれば、いずれ誰かが完成させます。たとえそれが戦争の道具であろうとも。
そして「再現性」が学問の基本原則である以上、1人が完成させたのなら、全人類が完成させられます。

つまり、僕が言いたいのは、こういう事です。

「オッペンハイマーが居ようが居まいが、いずれ人類は、この危険な地点に辿たどり着いただろう。
それは最初から決まっていた運命、人類にとってのがれられない運命だったんだ」

そして、この危険な地点に辿たどりついてしまった以上、我々に「後戻り」という選択肢はありません。
時間が過去から未来へ1方向にしか進まない以上、僕らも前へ進むしかありません。
以後、人類は、まるでカミソリの上を歩くような危ういバランスの綱渡りを永遠に続けるしかありません。永遠に、です。

これは、有史以来われわれ人類が積み重ねてきた自由選択の結果です。
と同時に、この宇宙にウラン235という物質が誕生した遥か太古の瞬間に決定された、逃れられない運命でもあります。
恐ろしい事です。
大変に、恐ろしい事です。

ヒットラーが自殺した日、オッペンハイマーや同僚の科学者たちが何となく気づいて戦慄したのは、こういう事だったんじゃないかと、僕は思います。
われわれ人類は、逃れられない運命のメカニズムによって、どう転んでもこの場所に辿たどり着くよう導かれていたのではないか?
あれほど憎み恐れていたヒットラーでさえ、そのメカニズムの小っちゃな歯車に過ぎなかったのではないか?

戦後、オッペンハイマーを責めさいなんでいた苦悩は、これだったんじゃないかと僕は思います。

** 湖畔のアインシュタイン

この物語の時点で、アインシュタインは既に現役を退いてプリンストン高等研究所で隠棲していたんですね。
さしずめ森の賢者といった所でしょうか。
そして、要所要所で教えをいに来た若い物理学者にアドバイスを与える。
いわゆるメンター(導師)、ドラゴンボールの亀仙人みたいな役どころです。

物語の最後近く、オッペンハイマーとアインシュタインの湖畔の会話が明かされます。
うろ覚えですが、アンシュタインはオッペンハイマーに以下のようなアドバイス(というより予言?)を与えたと記憶しています。

「君は、これから長い間、自分がやった事の責任を取らされ続ける。そして忘れた頃に、ふたたび表彰される」

事実、オッペンハイマーはその通りの人生を歩みます。

苦悩して、苦悩して、苦悩して、最後の老年期にやっと世間から認められ、表彰される。
彼は1963年にフェルミ賞を受賞しています。
当時59歳。
受賞を祝ってホーム・パーティを開いた彼は、家族ともども、それなりに幸せそうです。

なぜ、彼は幸せになれたのでしょうか?
僕の解釈は、こうです。

「天才であり続ける事をあきらめ、凡人になったから」

戦後、彼が苦悩していたのは、凡人には見えないビジョンが見えていたからです。
それは核戦争のビジョンでしょう。
戦後ホワイトハウスに呼ばれ大統領に謁見した時、浮かない顔のオッペンハイマーに対して、大統領は冗談交じりにこう言います。

「心配するな、ジャップが恨むのはこの私だ、君が恨まれる事はない」

これは、あまりにも見当違いの慰めです。
なぜ見当を違えてしまったかといえば、大統領が凡人だったからです。
凡人ゆえに天才オッペンハイマーの苦悩を共有できなかった。

そのオッペンハイマーが老齢に達し、にこやかにホーム・パーティーを開くまでになります。
1963年当時、世界情勢は終戦直後よりも悪化し、東西冷戦はいよいよ深刻さを増していたはずです。
前年には米ソが全面核戦争寸前までエスカレートしたキューバ危機が起きていますし、翌年にはアメリカがベトナム戦争へ全面介入する切っ掛けとなった「トンキン湾事件」が起きます。
本来なら、オッペンハイマーの苦悩は益々ますます深まっているべきです。
でも実際は、笑顔でホーム・パーティ。

「もう、いいかな、って……世界のために苦悩するのに、疲れちゃった。これからは心おだやかに老後を楽しもうと思うんだよ」
オッペンおじいちゃんの気持ちを言葉にすれば、こんな感じでしょうか。

最後に夜空を飛んでいくV2ロケットを幻視して物語は幕を閉じます。
V2ロケットは、核戦争に於けるもう1つの基盤技術、大陸間弾道ミサイルのご先祖様です。
ドイツ敗戦後、アメリカ・ソ連の両国は、V2ロケット開発に従事した旧ドイツ軍の科学者たちを競い合うように捕えます。
もちろん、彼らドイツの優秀な科学者を本国に強制連行し、弾道ミサイルを開発させるためです。
この逸話からも、第二次世界大戦終戦直後から既に東西冷戦が始まっていたと分かります。

** 追記:2024年4月30日

広島や長崎の被爆地を表現しなかったのは、ひょっとしたら日本人に対するノーランなりの優しさだったという可能性も有るのかな、と今では考えています。

デリカシーの無い観客たちが、被爆地の描写を下品なジョークとかミームのネタにして騒ぎ立てるという未来は、充分にありえます。
それを避けるには、一切、描写しないという選択しかない。
一瞬でも映っていれば、いずれ切り取られてネットで拡散されますから。

映画全体の統一感が失われるのも覚悟のうえで、直接描写をしないことで被爆者の名誉ひいては日本人の名誉を守ったのかも知れません。

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