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Chime

Roadstead で黒沢清監督「Chime」を観ました。
Roadstead は、ブロックチェーンと DRM を組み合わせた新しい仕組みの動画配信サイトで、そのランチ・タイトルとして製作されたのが、この映画「Chime」みたいです。

結論から先に言いますと、とても面白かった。
他の多くの黒沢作品と同様、「良いものを観た」感が半端ないです。

ネタバレ感想

以下、ネタバレありで感想を述べます。

(少し、間を置く)

上映時間45分。
中編映画という呼び名があるのかは知りませんが、短篇でもなく長編でもなく、その中間くらいの長さです。

  • 半透明のまくごしに見える影

  • 突然、何の前触れもなく無表情に人を殺し、あるいは自殺する登場人物

  • 心が壊れてしまった妻

  • 何を考えているか分からない不気味な若者

等々、黒沢映画おなじみ要素がこの映画にも出てきます。
しかしながら、他の黒沢映画(長編)とは少し手触りが違うように感じました。
長編映画に比べて〈物語〉の要素が軽い。逆に言えば〈表現〉の純度が高いです。

「短編小説と長編小説は、単に長さが違うだけで本質的には同じ物なのか? それとも全く別の表現形態なのか?」
という議論を、だいぶ前に聞いた事があります。
僕個人の意見を言えば、短篇小説と長編小説は、やっぱり何か根っこの所からして別物のような気がします。
同様に、短編映画(あるいは中編映画)と長編映画の間には、単なる尺の違い以上の、本質的な部分での違いが存在するのかも知れません。

それでは、「Chime」の良かったところを述べていきます。

** とにかく全ての構図が決まっている。

もともと黒沢清は、どの映画・どのカットを取っても構図がビシッと決まっているんですが、今回の映画はすさまじいほどの「構図番長」でしたね。

決まりに決まりまくっている構図の連続をずーっと浴び続けている感じで、それだけで眼福です。
もう、それだけで45分間のエクスタシー。

冒頭、料理教室の準備室みたいな所に走っている排気ダクトのギラギラとした感じから始まって、そこから視線が移動して、天井から吊るされた液晶モニターの裏面ごしに教室をのぞく訳ですが、徐々にズームして行って、モニターの下辺かへんと教室のロッカーの上辺じょうへんがピタッと一致した瞬間に、ズームが止まります。

この時点で既に、気持ちよさレベルМAXですよね。

小規模な映画ですから、舞台はそれほど多くありません。

  • 料理教室

  • 料理教室の準備室

  • 料理教室が入っているビルの階段

  • ビルのエントランス

  • ビル周辺の道路

  • 窓の大きなオシャレなカフェ

  • 自宅の玄関

  • 寝室

  • ダイニング/キッチン

  • 死体を埋めた河川敷

  • 息子の部屋

  • 自宅周辺の道路

こんなところでしょうか。

その全ての場面で、構図がビシッと気持ち良く決まっている。
これが、この映画最大の魅力だと、僕は感じました。

その決まりまくった構図によって何が強調されるかというと、「無機質な都市の機能美」です。
ある時は交差し、ある時は平行に走り、ある時は遠近法の消失点へ向かう直線の連続。
その機能美。

主な舞台が料理教室という事もあって、とにかく画面内に存在する物すべてが、清潔で機能的なんですよ。

** クリーンな都市と猥雑な人間

繰り返しますが黒沢清の映画は、どれを取っても構図が素晴らしい。
その中でも、特に「Chime」の構図が突出していると感じるのは何故なぜなんだろう? と考えてみますと、以下のような理由が浮かび上がります。

「都市(建築)のクリーンな機能美と、その中で動いている人間の猥雑わいざつさが、完全に分離しているから」

これは今までの黒沢映画には無かった特徴だと思います。
今までの映画では、建物の壁が何処どこかしら薄汚れていたり、黒いみが付着していたりして、人間が根源的に持っている猥雑さ・汚らしさを想起させ、観る者に嫌悪感をもよおさせていました。

つまり人間の肉体から発生する〈汚らしさ〉が、人工物である都市を侵食していたんですね。
都市のクリーンさと人間からみ出る汚らしさが混然一体となって、そこに異界が生まれる……というのが今までの黒沢映画だったと思います。

この「Chime」は、今までの黒沢映画とは逆のアプローチで異界を作っています。

都市の持つ数学的な美しさと、人間が抱えている猥雑さを分離する。
その上で、
「都市の機能美が、異界を呼び寄せる」
というアプローチです。

例えるなら、
天才数学者が黒板いっぱいに書いた方程式が、期せずして黒魔術の文様として機能してしまった……という感じでしょうか。

僕ら人類が、都市を機能的でクリーンな物として造り上げたのは、何故でしょうか?
もちろん、「その方が快適だから」です。
人は、快適な生活を送りたいと願って、家を建て、都市を造る。
人間に奉仕するものとして徹底的に機能を追求し、清潔を第一に造り上げられた都市は、しかし、一定の質量を超えて臨界点に達した瞬間、人間の意思とは全く関係のない別の原理で動き始め、異界と接続し、この世ならざる物を呼び寄せてしまう。

「機能的かつクリーンであること」を追求した結果、期せずして異界とつながってしまった場所の代表が、料理教室です。
徹底して数学的に設計されているがゆえに、逆説的に、その場所では何が起きても不思議じゃない。

窓から差し込む電車の反射光も同様です。
それ自体は連続した長方形の光、単なる幾何学的な連続体に過ぎないのに、なぜか「異界」を強く感じてしまいます。
だいたい、あの連続光って、なんか変ですよね。
本当に電車の反射光なんでしょうか?
教室の正面(教師が立つ位置)に向かって左側の窓から差し込んでいるようですが、だとしたら、主人公が殺人を犯して準備室で手に絆創膏を貼っているシーンの、光源の位置が変です。

位置が変、といえば、この料理教室が入っているビルディングと周辺道路の位置関係が明らかに変です。
そのエリア全体の時空がゆがんでいます。
料理教室があるビルディングと周囲の道路全体が、既に異界なんです。

主人公がこのビルディングを出入りする描写が、映画の中に3回あります。

  1. 授業が終わって、主人公が普通に帰ろうとした時。

  2. 主人公が殺人を犯し、死体を自動車に乗せた時。

  3. 教室で幽霊を見た直後。

3回とも、変なんです。

まず1回目。
普通に授業を終えて、主人公はビル1階のエントランスから線路沿いの路地に出ます。
画面の奥に向かって歩こうとするんですが、なぜか振り返って画面こちら側に向かって歩いてきます。
そして黄色い壁画のあるT字路に立って、脇道を見つめます。
この主人公の挙動が変です。
何を思って振り返ったのか、なぜ戻って来てT字路をのぞき込んだのか、まったく分かりません。
この脇道、右に曲がりながら奥に向かって下る坂道です。
映画の中に坂道とか階段が出てきたら、多くの場合それは「黄泉平坂よもつひらさか」、すなわち、この世とあの世の境界です。

2回目。
生徒を殺して死体をビルから運び出した時。
ここで明らかに時空が歪んでいると分かります。
主人公が死体の入った袋を担いでビルから現れ、自動車まで歩いて行ってトランクに死体を投げ入れるんですが、料理教室のあるビルじゃなくて、となりのビルから運び出しているんです。
やっぱり、この坂道は「黄泉平坂」です。

3回目。
料理教室で幽霊を見た直後。
この時は、ビル1階のエントランスからして、もう変です。
横の壁に、よくある受付の小窓みたいなものが見えるんですが、その小窓にはまっているガラスが半透明の曇りガラスなんですね。
その曇りガラスに人影がチラチラと映ります。
……これ幽霊ですよね。
生きている人間の影だとは思えません。
そして、主人公は何を思ったか鏡を覗き込み、それから外へ出ます。
画面が切り替わって、ビルディング前の路地を映すカメラアングルになり、主人公が建物から出てくるんですが、その出現場所が、明らかに変です。
まるで瞬間移動テレポートでもしたかのように、突然、自動販売機の前に出現するんです。
やっぱり時空が歪んでいます。
そして、またT字路に立って〈黄泉平坂〉を覗き込みます。
すると、そこに刑事が立っています。
映画において、階段・坂道の途中や反対側に立っている人物は、だいたい化物ばけものです。

ここで一旦いったんまとめましょう。

これまでの黒沢映画は、
「合理的・機能的・清潔であるべき都市や建築物の中に、人間の肉体・精神が根源的に持っている『不浄さ(けがれ)』が蓄積していった結果、異界が生まれた」
という世界観。

この「Chime」は、
「都市や建築物を造るにあたって、合理性・機能性・清潔さを徹底した結果、期せずして人智を超えた原理が発動し、異界と繋がってしまった」
という世界観。

** 人間

この映画における「人間=登場人物キャラクター」は、どんな存在なのでしょうか?

まず第一に、人間の肉体・精神が根源的に持っている非合理性・非効率性・不浄さによって、逆説的に都市の合理性・機能性・清潔さを際立たせる役割を担った存在、と言えるでしょう。

自分の頭に包丁を突き立てる、あるいは生徒の背中に包丁を突き立てる。
赤い血が大量に流れ出て料理教室のゆかよごす。
床を汚す真っ赤な血によって、逆に、料理教室の清潔さが際立つ。

第二に、この映画の登場人物キャラクターたちは、
「他人に対して常にストレスを与え続け、その一方で、他人から常にストレスを受け続ける存在」です。

この映画に限らず、すべての黒沢映画に通底する裏テーマは、
「他人からストレスを受け続けた結果、ある瞬間、何かがプツンと切れて殺人を犯す人間たちの恐ろしさ」
だと思います。
言い換えると、
「人は誰でも心の中に大きなストレスを抱えている。しかし、それを隠して他人と笑顔で接している。その内に秘めたストレスが限界を超えると、人は突然に、笑顔のまま相手を殺す」
という原理です。

人は快適さを求めて、合理的で機能的で清潔な家を建て、都市を造った。
しかし、それだけでは「完全な快適さ」は得られない。
他人のサポートが無ければ「私の快適な暮らし」は完成しない。
だから人は、他人をサポートし、その見返りとして他人からのサポートを期待する。
しかし、そこには常にストレスという名の代償が付きまとう。

僕らが生きる社会には、「快適な人生を望めば望むほど、その代償として多くのストレスを引き受けなければいけない」という、けようのないパラドックスが存在している。

そしてストレスが蓄積して蓄積して、ある臨界点を突破すると、人は爆発して誰かを殺す。

この映画の主人公は、徹底的に他人に対して無関心になる事で、他人からのストレスを防ごうとしています。
どんなに奇妙な言葉を他人が吐こうと、彼はそれをスルーします。
しかし、その防御策も完璧ではない。
生徒の一人である青年の奇行には「無関心」で対処できたのに、同じく生徒の一人である若い女とのマンツーマン指導では、あっけなく「無関心」の壁を突破されてストレスМAXになり、いきなり相手を包丁で刺し殺してしまう。
なぜ主人公の「無関心防御」が、この若い女に突破されたかというと、彼女が典型的な「かまってちゃん」だったからでしょう。
〈無関心防御〉は〈構ってちゃん攻撃〉に弱い、って事か。

主人公は、家庭内でも、この「無関心作戦」でストレスを回避し自分の身を守ろうとします。
その結果、田畑智子演じる妻が一身いっしんに家庭内のストレスを受ける羽目はめなります。(たぶん彼女は専業主婦でしょう)

夕飯の食卓で、突然に息子が笑い出し、その直後に妻が大量の空き缶を庭に持って行って、コンテナにブチ撒けます。
大きな音が、家じゅうに響き渡ります。
これは、明らかに妻からのSOSサインです。
おそらく、思春期の息子の奇行が母親に大きなストレスを与えている。
しかし、父親である主人公は無関心を決め込んで向き合おうとしない。
結果、ストレスを一身いっしんに背負い続けた妻の心は、壊れてしまった。

わざと大きな音を立てて空き缶をつぶすのは、精神を病んでしまった者の悲痛な叫び、ある種の代償行為です。

これは僕の想像ですが、おそらく彼女は、ひとしきりコンテナの空き缶を足で踏みつぶして大きな音を立てたあと、ふたたびコンテナからゴミ袋へ缶を戻してキッチンへ持ち帰っているのではないでしょうか?
そして、再びストレスが限界に達すると、また同じ動作を繰り返しているのではないでしょうか?

物語の最後ちかく、主人公は、暖簾のれんの向こう側に洗濯物が散乱した部屋を発見します。
家事がとどこおるほどに、妻は疲弊し精神を病んでしまっている。
しかし、今の今まで、主人公は気づけなかった。

「無関心」によって自分の心を守ってきた主人公も、物語の最後、一気にシッペ返しを食らって精神を崩壊させます。
そして、精神が崩壊した主人公の主観で観る世界は、もう有りふれた都市近郊の住宅街ではなく、「異界」です。
物語の最後に主人公が見ている景色、聞いている音は、妄想なのでしょうか?
それとも、精神の崩壊と引き換えにある種の「邪眼」を手に入れ、隠された世界の本当の姿を見て、その音を聞いているのでしょうか?
ハッキリとは示されないまま、物語は幕を閉じます。

** 現実世界に異界を造る名人

黒沢清が、当代随一の映画監督である事は間違いありません。
彼の映画の魅力を語れば、枚挙まいきょいとまがありません。
なかでも特に僕が素晴らしいと思うのは、
現実世界の中に異世界を作り上げてしまう手腕です。

何故なぜ、人は小説を読み、映画を観るのでしょうか?
あるいは、お金を貯めて海外旅行へ行くのでしょうか?

「ここではない何処どこかへ行きたい」という本能が、人間の心の中に有るからだと、僕は思います。

だから人は、遥か遠くの銀河で繰り広げられる物語に心をおどらせ、酸性雨が降りアンドロイドがうごめく未来都市の物語に心を躍らせ、剣と魔法が支配する古代王朝の物語に心を躍らせるのでしょう。

僕らが住むこの場所から空間的にも時間的にも遠く離れた別世界の物語は、確かに楽しいです。

しかし一方で、
「しょせんは絵空事だよ。現実の僕とは何の無関も無い、遠い世界の御伽話おとぎばなしさ」
という感覚を完全にぬぐい去る事は不可能です。

「僕の住んでいるこの町と地続きの場所に、平々凡々な毎日の延長線上に、とつぜん異世界が立ち現れる……そんな物語を観たい、読みたい」
こんな我儘わがままで矛盾した思いを、ジャンル映画に耽溺するマニアたちは持っています。
黒沢清は、その思いに答えてくれる世界で唯一の映画監督だと、僕は思っています。

町の何処どこにでもありそうな何の変哲もないドア、それでいて何処に通じているのか誰も知らないドアを見つけて、赤いテープでふちを囲う……たったそれだけ事で、この現実世界の中に異世界を出現させてしまう映画監督なんて、世界中を見回してみても黒沢清しか居ないと思います。

追記(2024.8.24)

いま、ふっと答えが浮かんできた。
あっ、これ……
料理教室のあるビルディングおよび周辺地域そのものが「魔物」なんだ。
「場所」それ自体が意思を宿した魔物なんだ。
主人公は最初から魔物に魅入みいられていたんですね。
そう考えると、合点がてんが行くシーンがある。

例えば、レストラン・シェフへ転職するための面接を受けたカフェのシーンで、

面接官「料理教室の先生は、どうされます?」
主人公「もちろん、やめますよ。あんなもの」
面接官「でも前回の面接では、料理教室にもプライドを持っているって言ってましたよね」
主人公「あれ、おかしいな。なんでそんな事を言ったんだろう……」

っていう会話があります。
この時点で既に主人公は、「料理教室という魔物」に取りかれ、操られていたんですね。

つまり、この物語って「幽霊屋敷もの」の変種だったんだ。
屋敷それ自体に邪悪な意思が宿った幽霊屋敷の物語。
いや……たぶん、もっと規模がデカい。
東京という都市全体が、邪悪な意思を宿した巨大な幽霊屋敷と化しているのか……

うわっ、やられたぁ!
さすがは黒沢清。
お見事、1本取られました。

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