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心理学から見る 村上春樹 『沈黙』

本記事は村上春樹の短編『沈黙』を、心理学の視点を用いて書いた解説文です。(本書はトプ画の『レキシントンの幽霊』に収録されている短編集です)

ふだんは村上春樹の読書感想文を書くことが多いのですが、本書は心理学をかじった私からしていろいろ考えるところがあり、このような解説文として書いてみました。

「人を見た目で判断しない」ことは可能か?

まずはじめに、本書のテーマについて軽く触れたいと思います。

この小説でもし「教訓」があるとすれば(わざわざこの仮定をつける理由は、もともと村上春樹の作品には意図された教訓は存在しないため)、主人公のいじめの原因は悪質なウワサの広まりであることから、「噂をたやすく信じるな」「うわべだけの情報で人を判断するな」といったところでしょうか。一見怖そうな人が、いざ話してみるととても優しい人だったり、反対に危害を加えないような優しそうな人が、後ろに大きな刃を持っていたり。他にも、ある人のよくない噂が流れてきた時に、「その人はきっと悪い奴だ」と判断することも、見た目だけ(=うわべだけの情報)で判断していることに含まれます。

では、「人を見た目で判断しない」ためには、何に注意すれば良いのでしょうか。主人公が批判する「連中」にならないためには、どうすれば良いのでしょう。ここから心理学の観点を用いて説明してみます。

ヒューリスティックスについて

まずはじめに、とても残念なお知らせですが、私たちのこの「人を見た目で判断する」脳の働きかけは絶対に避けて通れるものではありません。絶対にです。どんなに意識して「人を見た目で判断しちゃだめだ!」という良心を保とうとしても、ヒトの脳は自動的に、そして瞬時に、相手の「見た目」で印象形成をしてしまうのです。

どういうことか。人間の脳は、この世にあふれる膨大な情報を処理するために、ある便利なスイッチがあると想像してみてください。このスイッチはヒューリスティクスと呼ばれます。簡単いうと、経験や先入観のことです。

ヒューリスティックス(heuristics:発見的手法):経験則や先入観から答えを導こうとする思考法

この世界には多くの情報が散乱しすぎるあまり、わたしたちの脳はひとつひとつの情報を丁寧に分析することができません(なんせ時間は限られています)。そんな混沌たる世界で生きていくために、わたしたちの脳は、さまざまな物事を簡略化してしまうようにつくられているのです。複数の異なる作業を同時に集中してこなすのは難しいように、脳は物事を自動で簡略化するのです。

これは、あらゆる物事をすばやく理解するのにはうってつけですが、のちにバイアスをうむという大きな落とし穴もあります。

たとえば、以下に示すふたりの人物のうち、あなたはどちらのほうが「より外交的」であると判断しますか。

⑴線が細く、眼鏡をかけ、チェックのシャツに、ぼさぼさの髪の毛 
(2)筋肉質、肌が艶やか、タンクトップに、ワックスでまとめられた髪の毛

ほとんどの方が後者(2)を選ぶと思います。これこそがまさにバイアスです。これは単に、全体、例えば世界全体という大きな規模で見ると、確かに後者(2)の特徴を持つ人の方が「より外交的」である傾向はあるかもしれませんが、必ずしも後者(2)の特徴を持つ個人全員がその素質を持っているとは限りません。この例で言うと、たしかに眼鏡をかけた人はより静かなイメージがあるけど、だからといってあなたが今目の前で話している、眼鏡をかけた男性もそうであるとは限らない、など。

ステレオタイプ化がうむ怖さ

この精神上の簡便法(ヒューリスティクス)の何が恐ろしいかというと、個人に当てはめた時に生まれるものの見かたです。別の言葉で示すと、それらはバイアス、偏見、そしてのちに差別をうむことになります。

先ほど「どちらが外交的と判断するか」問題を例として挙げましたが、これにもっと複雑な物事ー例えば人種問題ーが絡んだらどうなるか。「中国人だからより態度が横柄なはずだ」「見た目がハーフっぽいから英語話せるだろうな」「黒人だから暴力的そう」ーこれらはもちろん心にないことですが、知っての通り、悲しいことにこれらのバイアス、偏見を持つ人はこの世界にはまだたくさんいます。

むかし、私の友達の中で「中国人ってうるさくてマナー悪いからきらい」と言い放った方がいました。この言葉を受けた時、私はショックのあまり、その後の会話をほとんど聞くことができませんでした。なぜ、ここまで生きてきて、たくさんの醜い偏見や態度を見てきたはずなのに、そのように自分のステレオタイプの恐ろしさ、そしてそれが当の本人、そして彼らのコミュニティへ与える影響を考えることができないのか。ただあきれるばかりで、やるせなくて、哀しく腹を立てながら帰ったことを覚えています。一例として人種差別という政治的な例を挙げましたが、必ずしもセンシティブな話題のみにバイアスは見られるものではありません。友人や職場の仲間との日常会話の中でも、たくさんのバイアスが交わっているのです。

ネット社会という凶器

この友達がそんな発言をしたのにはいくつか理由があると思いますが、一つは私たちを囲むメディアの影響も少なからずあると考えています。

『沈黙』では、主人公は最後にこんな台詞を残しています。

「僕が本当に怖いと思うのは、自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。自分が誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんていうことに思い当たりもしないような連中です」

この台詞から、効率と利便性から生まれた今のネット社会の怖さを連想することができます。今や私たちの生活には欠かせないネットですが、その利便性は時として人の心を殺す凶器とも化すのは今や自明のこと。匿名性が個人の口から出る言葉の無責任さを加熱させ、誹謗中傷による被害、そして自殺はあとを絶ちません。ネットは集団思考を結束させ、時としてそれは個人に対し、激しい同調圧力をかけることもできるのです。このように、個人の責任は全く感じないくせに、集団として特定の個人を責めたてる様子は、本書の主人公が批判する内容と同じように感じます。こういったメディアの登場は、先ほど話したステレオタイプ化を簡単にしやすく、また情報源も曖昧なことから、どうしても「人を見た目で判断」してしまう傾向にあります。

私たちの生きる社会は、自分の意見をしっかり持っていないと、いとも簡単にうわべだけの説得力ある悪質な情報によって流されてしまう。そんな危険な地に立っているのです。

村上春樹の指摘する「連中」にならないために

繰り返しますが、私たちの脳による物事の簡略化(ヒューリスティクス)は避けられるものではありません。私たちの脳は瞬時にスイッチを作動し、「これはAだ」「これはBだ」とカテゴライズし、世界のあらゆる現象を理解しています。これはいくら注意しても、私たちの無意識化で行われてしまうものです。

しかし、そこで生まれたあなたの判断を、個人に当てはめる時には自分の意思が働いているはずです。自分の発言する内容が、世の中にどのような影響があるのか、どういう人たちが影響されるのか。これらを自分のアタマでちゃんと考えれば、心ない発言はそうたやすく口から出ないはずです。ただ、残念なことに今の世の中ではより扇動的で説得力を持つテレビ、ニュース、メディアというものが存在します。汚い情報、ありもしない不安の扇動、心にない偏見・差別発言は世に溢れているのです。だからこそ、自分のアタマでちゃんと考え、自分の言動に責任をもち、周囲にいとも簡単に流されないことがとても大切なのです。

村上春樹の『沈黙』で出てくる、「自分が誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんていうことに思い当たりもしないような連中」は、ネット社会を生きる現代人への注意喚起のようにも感じられました。主人公は、いじめている本人よりも、それに流される、自分のアタマで何も考えない連中が一番憎いと発言しています。自分もそういう「連中」にならないように、常に視野を広く持ち続けたいものです。

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