掌編小説 湖畔の記憶

 夏、無機質な都会を離れ、この別荘で過ごす時間は、とてもゆったりとしていた。それでも飽きることなど一度もなく、私は時の流れに身を委ねてぼんやりと思索に耽るのだった。
 テラスからは、大きな湖が見えた。輝く水面が湖の向こうで鬱蒼と生い茂る森とコントラストを成し、私の眼前に広がっている。ちらちらと動く光は、いつまでも見ていられる。
 森は暗くて怖いからと敬遠されがちだが、私はその暗さが好きだった。ときどき、ふと思い立つと、馬に乗って森を散策した。暗い森から見る湖は、より一層輝いて見えた。
 リズム良く揺られ、馬の蹄の音を聞きながら森の奥を見てみると、森がどこまでも続いて終わりがないように感じ、吸い込まれそうになる。きっとこの錯覚は自身の心情によるものなのだと気付いたのは、つい最近のことだった。

 角砂糖をひとつ、ぽちゃりと紅茶に入れる。ゆっくりとかき混ぜ、角砂糖が丸くなっていくさまをぼんやりと眺めた。
 この何気ない時間に意味などなかったが、かと言って焦燥感のようなものもなく、私はその時々をふわりふわりと漂っていくようだった。
「絵梨衣」
 紅茶から目を離し振り向くと、父が立っていた。
「あら、おかえりなさい」
 私がそう言うと、父は口角をくいっと上げ微笑んだ。
「どうだった? 演奏は」
「あぁ、今日も最高だったよ」
 私と違って陽気な父は、よく街へ出かけた。身分を隠し、街の広場でチターを演奏するのが父の趣味だった。
 もらったチップを私に見せ、満足げに笑った。
「絵梨衣、今日は良い日だ。湖も凪いでる」
「そうね」
 父の言わんとすることを察し、私はおもむろに立ち上がった。
「さぁ、行こう」
 そう言って早足で歩く父の後を、スカートの裾を持ち上げながらついていった。
 湖畔に、小さな桟橋がある。そこにつけられた小舟に、父と私は乗り込んだ。

 父がオールを漕ぐと、小舟がスイーと進んだ。日差しが眩しかったが、暑くはなかった。小舟の滑らかな動きに、ついまどろんでしまう。先ほどまでぼんやりと眺めていた水面に自分がいるのは不思議な感覚で、夢か現か分からない心地よさがあった。
 湖上から、辺りを見渡す。青空と深い森、そして別荘が目に入った。別荘は大きな洋館で、レンガ色の屋根に白い壁が映える。元は宮殿だったその建物のそばには小さな教会があり、その尖塔の先に十字架が光っていた。
「どうだ、いい景色だろう」
 父の問いかけに、私はにこりと微笑んだ。
 父には内緒だが、自らの境遇を恨んだことがある。この生活は自由なようでとてつもなく不自由なのだと次第に気付き始め、意味があるようでない日々の何気ない動作ひとつひとつにも疑問を持つようになった。
 この先、当然のように同じような境遇の相手と結婚して、くだらないしきたりに縛られながら窮屈に暮らしていくのだろうか。そう考えると、もしかしたら今が一番幸せなのかもしれない。
 漠然とした不安が湧き上がり、咄嗟に父を見ると、父も私を見つめていて、その温かい眼差しにほっと安心する。私なら、きっと大丈夫。
 もうすぐ夏が終わる。来年の夏も、またここで――。