掌編小説 今

「ひとつあげる」
 部活帰り、音楽室を出ると、廊下で待っていた萌々香が飴をくれた。夕日を浴びながら、二人で廊下を歩く。すでに人はまばらで、校内には心地よい静寂が漂っていた。
「ついに明日、本番だね」
「ん……」
 私は、こくりと頷いた。
 明日は、吹奏楽コンクールの地区予選の日。高校三年生の私たちにとっては、最後のコンクールだ。決して強豪ではないが、明日のために部員全員で毎日練習に励んできた。
「緊張する」
 そう言って、萌々香が目を細める。つられて、私も目を細めた。
「萌々香と演奏できるのも、明日で最後かぁ」
「いやいや、絶対に県大会行くから! 明日を最後にはしないよ」
「え〜?」
 自称進学校である我が校は勉強にも力を入れていて、勤勉な生徒が多い。早く勉強に専念したいという声が、部内でもちらほらと上がっていた。私は県大会に行きたい派だったが、受験への焦りも確かにあって、今はどっちつかずの状態になっていた。
「地区予選で金賞を獲って、県大会に出る! 受験勉強も頑張って、第一志望の大学に合格する!」
 私の気持ちを見透かしたかのように、萌々香が強い口調で言った。
「……どっちも欲しがるなんて、贅沢なのかな」
 萌々香が私の顔を覗き込んだ。私の目も泳いでいただろうが、萌々香の瞳も揺らいでいた。
 今を楽しんでいていいのか、将来を見据えて行動するべきなのか。この曖昧な世界で、私たちは正解を選択し前進していかなければならない。正直、不安で仕方がない。何が良くて部活と勉強を両立しようと頑張っているのか、分からなくなることがあった。多忙な日々の中で、嫌な感情を見て見ぬふりしている。こうしているうちに、無知な大人になってしまうのだろうか。
 きっと萌々香も私と同じような気持ちなのだと察した。現在と未来が繋がっていることを、私たちは知っている。だからこそ、思い悩んでしまう。
「急に弱気じゃん。贅沢じゃないよ。全然贅沢じゃない」
「そう?良かった」
 もしかしたら、贅沢なのかもしれない。でも今「贅沢だよ」なんて言ったら、萌々香の気持ちだけでなく他の全ての感情や出来事、時間までも不意にしてしまうような気がした。
「明日、頑張ろうね」
 私がそう言うと、萌々香はうれしそうに微笑んだ。
 包み紙を開け、真ん丸な飴玉を口に含む。ミルクと砂糖の甘味がじわりと広がった。