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ボードゲームの持つ可能性を探究する

きっかけはコロナ

ここ数年、ボードゲームにはまっています。世間的にもコロナ禍によってボードゲームブームが加速した感覚はあって、たしかに僕も中々外出できない中、それぞれ家に居ながら遊ぶ方法はないかと考えてビデオ通話をしながらみんなでボードゲームをやろう、と友人に声をかけたのがきっかけでした。

基本的にボードゲームはアナログなのでみんなでその場に集まってプレイすることを前提に設計されているものが多く、ビデオ通話でコミュニケーションはできるけども、その場に居ないとうまくプレイできないものも数多く存在します。そんな中で「これならビデオ通話さえできれば皆で楽しめそう」という条件のゲームを探す作業も思いのほか楽しく、準備段階からワクワクできました。

「これならビデオ通話さえできれば皆で楽しめそう」そんな条件に当てはまりやすいのが「コミュニケーション系」と呼ばれるもので、話し合いを進めながらある目的の達成をゴールとする協力型や、会話の中から誰が犯人かを当てる人狼などもコミュニケーション系といえます。

奥深いコミュニケーションの探索

「コミュニケーションの難しさ」は誰しも一度は感じたことがあるのではないでしょうか。例に漏れず僕もその一人ですが、個人的には「難しさゆえの面白さ」の方が優っている感覚があります。

仕事や生活をしていれば同じ言語でさえミスコミュニケーションで溢れていて、「なんでそう伝わっちゃうかな」と頭を抱えることも少なくありません。ある伝言ゲームの実験では「赤いりんご」というお題は最後まで問題なく伝わりますが「甘くて赤くて大きいりんご」と情報が増えた途端正解率が下がり、主語であるりんごすら伝わらないこともあるという結果が得られたそうです。その逆に何かの分野での熟達者同士ではアイコンタクトやちょっとした所作だけで伝わってしまう、いわゆる阿吽の呼吸と呼ばれるコミュニケーションもあります。

何がこの差を生むのか、どうすれば伝えたい主旨が抜け落ちずに伝わるのか。そういった痒いところがどこなのかわからないような難しさと、難しいながらも伝わり、物事がスムーズに動き出す時のようなコミュニケーションの面白さに僕は興味そそられるのかなぁと感じています。

ボードゲームには、このようなコミュニケーションの奥深さをみんなで探索して観察してみる、そんな場を設けてくれるポテンシャルがあるように思います。

趣向を第一に、結果はあくまでも副産物

とはいえゲームは「楽しむことが第一」だと感じていて、たとえば「コミュニケーションを取るためにボードゲームをしましょう」としてしまうと、プレイ中の言動に気をつけなきゃいけないというバイアスがかかり、ゲームを楽しむという大切なことが抜け落ちてしまう恐れがあります。それではボードゲームの持つ本来のポテンシャルを「コミュニケーション」という枠にはめてしまいかねない。

3.11の地震以降、地震時の考え方や行動を追体験できるボードゲームも広まったようですが、プレイしていてもどうにも辛さが残ってしまい、タメにはなるけど楽しくはない、できればあんまりやりたくない、という気持ちになってしまったという記事を読んたことがあります。この記事からも「何かの経験を得るためにボードゲームを用いる」のではなくて「ボードゲームを楽しんだ結果、振り返ってみると〇〇得ることができた」という順番がすごく大事だと思います。

しかし「〇〇を得ることができる」を意識しすぎると先述したように「何かの経験を得るためのボードゲーム」になってしまい楽しむことが二の次になってしまう、そうなるとボードゲームの持つポテンシャルが発揮されず、結果あんまり楽しくもなかったし得られるものも特にない、このボードゲームつまらなかったなという非常にもったいない結論になりかねません。

ボードゲームを楽しむことを第一にしつつ、「あー楽しかった」だけで終わらせない。とはいえ何かを得ることを目的とはせず、みんなでゲームを楽しんだ結果、振り返ることで何かを得られるかもしれない。そんな場を創造することができないかと最近は考えています。

とにかくボードゲームをやらないと始まらないので、お誘いさせてください!

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