非合理的な人なんていない
2020/06/10 晴れ
仕事時間(朝) 2時間
動画解説 教材作成
指導人数 6人
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非合理的な人間はいるのか
自分は非合理的な人が苦手。Aならばどう考えてもBになる場面で、Cを言い出す人が苦手である。
大学時代も、合理性を欠いた同期に対してかなりの嫌悪感を抱いていた。部活でも、よく口論になった。
合理的な人とは気が合う。いちいち言わなくても理解し合えるし、話がとんとん進むから好きだ。話がどんどん深くなるし、変に話が逸れないから、会話に意味が生まれる。
塾をしてても、非常に合理的な生徒とそうでない生徒がいると感じる。そして、合理的ではない生徒とは、やはり意思疎通がうまくいかない。
とうしたものか…
と考えていたら、ある仮説が浮かんだ。
世の中に非合理的な人なんていないのでは?誰しもすべての行動には合理的な理由があるのでは?
という仮説だ。
つまり、一見非合理的に見える行動にも、れっきとした理由があるのだ。ただ、その因果関係がもつれていたり、言動と不一致なため、非合理的と感じるだけ。
心の底では、非常に合理的なのではないだろうか。
と思った。
どういうことか。
例えば、テストでいい点数を取りたい、という生徒がいたとする。そして、そのためにはこれとこれをやる必要があることが分かっている。やれば、目標は達成できるし、やらなければ、目標は達成できない。
しかし、いっこうにそれを実行に移さない。行動しないけど、テストでいい点数が取りたい、と言い続ける。
これは、かなり非合理的な態度である。
やる必要があることがわかっていて、やれば点数が伸びるという状況であれば、選択肢は2つ。やるかやらないか、だけである。それ以外はない。
合理的であれば、やるだろうし、やる価値がないと判断すれば、やらないだろう。
では、点数は取りたいけどやらない人は、非合理的なのだろうか。今まではそう思っていたけど、なんか違う気もしてきた。
そういった非合理的な人は、言葉と行動は一致していないけど、気持ちと行動は一致しているのではないだろうか。
つまり、点数が取りたいというのは、確かに本当である。しかし、それに対する労力と結果を比較したとき、その人としては、労力をかけてまでほしい結果ではないのではないか。
それよりも勉強しないことによって得られるメリット、例えば自由時間が増える、テレビが見れる、ゲームができる、の方が重要なのである。
本人としては、勉強以外の要素も比較検討した結果、勉強しないことを合理的に決めているのである。
簡単に言えば、勉強して得られる結果(点が伸びるなど)が、優先度が低く、テレビやゲームなどの優先度が高いから、そちらを選択しているだけなのだ。
たとえそれで点が取れなくても、少し親に怒られるくらいで、死ぬわけではない。そのテストで自分の将来が絶望的になるわけではない(またはそれを受け入れる)から、そのためにゲームの時間を削るというのは、本人としては、非合理的なのである。
じゃあ、なぜ点数を伸ばしたいと言うのかというと、それも何かしら合理的な理由があるはずである。
例えば、勉強を頑張ると言わないと親に怒られるとか。
とにかく、必ず理由があるのだ。他人からしたら非合理的でも、本人としては合理的な理由が、必ずあるのだ。
だから、非合理的な人に会ったら、相手を理解するスキルを磨くチャンス。話が通じない、で終わらせるのではなく、相手の表面的な言動に惑わされず、本心を聴き取る。
本音を聞き取ることができれば、自分は相手のためにどう貢献できるかが見つかる。見つからなければ、自分の顧客ではない。
どのみち、「非合理的だ」と言って見切ってしまうのは、得策とは言えない。
は?どういうこと?意味分からん、ふざけんな、と思ったときこそ、相手に興味を持って、合理的な行動原理を見つけ出す。
そこが、今の自分の一番の課題かもしれない。
こうに決まってる、と決めつけずに、相手の絡まった因果関係の糸を、1つずつ解いていきたい。
それができたら、より多くの人間を理解することができるようになる。
以上🖐️
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