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【ウソみたいな自己紹介~20年で3回の入院編~】

今日も、自己紹介をしたいと思う。
 
 
長くなるので、
覚悟してほしい。
 
文章ではなく、
期間の方だ。
 
 
20年にわたる、
ある病院との物語だ。
 
 

2018年8月


次女が産まれたのは、
成城木下病院
 
 
小田急線成城学園前駅から、
徒歩3分程度の場所にある。
 
駅名になるくらい巨大な土地に広がった、
幼稚園・小学校・中学校・高校・大学の、
オールラインナップの成城学園エリアに、
隣接している。
 
 
その成城木下病院は、
数年前に建て替えられている。
 
 
有名建築家の隈研吾氏の設計。
 
 
ステキな外観に、
機能的な内装に。
 
 
3人目にして初めて、
病院でお産を迎えることにしたのは、
建て替え後であったことが、
大きく影響している。
 
 
お産の経緯はスムーズで、
担当医が、
結局、
間に合わなかったほどの安産。
 
とはいっても、
母体には、
大きなダメージがある。
 
しかも、
40歳を超えての高齢出産。
 
 
誰もが安心できる環境が必要だった。
 
 
それが、
新しい成城木下病院と担当医の存在。
 
その担当医は、
もう勤務していないようです。
 
 
とても感謝している。
 
 
で、
入院といっても、
1日だった。
 
つまり、
昼頃にお産があり、
当日のみ、
家族全員5人で一つの部屋で休んで、
翌日に退院してきた。
 
 
1週間程度の入院が、
一般的ということだけど、
まぁ、
一般的ではないので、
そこはね。
 
 
歩いても、
20分くらいだし、
とりあえず、
身の回りのコトは、
夏休み中の長男(当時13歳)と、
有給休暇を十分に貯めていた私で、
やることになっていた。
 
何より、
大切なのは、
1年近く大変な想いをしてきて、
身体もボロボロな妻が、
一番安心できる状況にあること。
 
それが、自宅だったという話。
 
 
 

2012年2月

遡ること6年半。
 
 
2度目の入院は、これは彼女だけ。
長女のお産を1か月後に控えた頃。
 
 
予定日の1か月ほど前に、
インフルエンザに罹ってしまった。
 
 
何事にも動じない私の、
大きな失敗の一つである。
 
ギリギリまで、
自宅で看てしまったのだ。
 
 
申し訳ない想いは、
今も消えないけど、
妻も長女も健在だ。
 
 
そうでなければ、
次女は成城木下病院で、
産まれていない。
 
 
その長女のお産は、
長男を自宅で取り上げてくれた、
助産師という名の魔女である、
たつのゆりこさんの助産院で。
 
 
当時の自宅から歩いて、
5分もかからない場所にあった。
 
 
なので、
建て替え前の成城木下病院には、
入院の予定は全くなかったのだ。
 
 
助産院でお産するためには、
産婦人科医師のOKをもらう必要がある。
 
そのため、
定期的な検診だけは受けていた。
 
 
経過も順調だったし、
当たり前だけど、
予定日直前に入院することなんて、
想像はしていなかった。
 
 
でも、
人生は、
予想していないコトしか起こらない。
 
 
元々、
妻にとって、
病院という場所が、
お産において最適とされる、
リラックスできる場所、
ではなかったので、
自宅や助産院を選んでいたのだ。
 
まさか、
そんな大事な時期に、
入院させることになるなんて、
今考えても、
失敗でしかない。
 
大抵のコトは、
振り返って成功と捉える私でも、
あれだけは、
そうは思えない。
 
 
妻の入院中、
私は、
リモート勤務で乗り切った。
 
2012年の2月だから、
約10年前のコト。
 
 
いまでこそ、
国からも求められているリモート勤務であるが、
当時は、
殆ど、
なかった。
 
たまたま、
当時は、
 
外資系の金融機関に勤めていたので、
それが可能な環境は用意されていた。
 
さすがの、
世界最大の資産運用会社を名乗るだけはある。
 
 
米国籍の巨大企業の、
一拠点に過ぎないので、
東京オフィス自体が、
リモート環境ということだったのかもしれない。
 
捉え方の角度を少し変えれば、そう思える。
 
まぁ、
上司も、
仕事の内容も、
特に問題なしということで、
約2週間ほど、
私は、
出勤せずに、
長男の世話や幼稚園の送り迎え、
病院の食事が受け付けなかった、
妻に料理を届ける毎日だったな。
 
勿論、
合間を縫って、
与えられた最低限の業務はやり切った。
 
 
こうやって思い出して、
よくよく考えてみると、
ホントに、
様々な体験してるね。
 
 
16年前に1年間育児休暇。
15年前に2か月間時短勤務。
10年前に2週間リモート勤務。
 
 
当時は、
誰もやってなかった。
 
男性では、特に。
 
一般的ではないのだろうね。
 
 
話は戻って、
2週間の入院を経て、
無事と言ってしまうことに、
物凄いためらいがあるけど、
とりあえず、
たつのさんの助産院で、
長女が誕生した。
 
 
というのも、
当時の成城木下病院は、
現在の最新の設備と異なり、
何かと問題が多かった。
 
妻が、
病院の食事を受け付けなくなったのも、
原因がある。
 
詳しくは書かないが、
不安な妊婦には、
相当な心理的ダメージがあった。
 
そんなこともあり、
病院でのお産は、
絶対に避けたかった。
 
当時はね。
 
 
病院を建て替えて、
外観も内装も新しくなるって、
本当に大事だな。
 
勿論、
そこには、
キチンとした方針や計画が必要だし、
何より、
何を大切にするのか、どんな場所にしたいのか、
という、
存在そのものの価値観が、
全面的に効いてくる。
 
企業やビジネスの成功のカギと同じです。
 
 
 
たしかに、
魔女たつのさんの助産院、
BeBornにおいては、
匂いから置いてある器具、
全てがたつのさんだった。
 
そんなBeBornも、
いまは閉じてしまった。
 
長野かどこかの、
山奥の方に、
移ったそうです。
 
魔女は、
都会より田舎が似合う。
 
 
さて、
BeBornの時も
一泊だけだったのね。
 
妻は、
とにかく、
自分の場所に、
身を置くことが、
第一優先なのです。
 
 
 

2021年6月


気づいたら、
期間だけでなく、
文章も、
長くなってしまっている。
 
まぁ、仕方ない。
 
今日は土曜日だ。
 
少しくらい長い記事でも、
許されるだろう。
 
 
あとで、
見出しでもつけるか。
 
 
先に進もう。
 
いや、
先ではない。
 
 
昔に戻ろう。
 
 
 
最初の入院の話だ。
 
 
 
最初の入院は、私だけ。
 
 
しかも、
1998年の話だ。

1998年10月 

 
踊る大捜査線 THE MOVIE』の公開の頃。

上智大学法学部法律学科の4年生だった。 

ゼミは、林幹人教授の刑法。
今は、学習院大学にいらっしゃる。

懐かしいな。

林教授もよく通ってくださった、
上智大学のそばにあった、
魚料理の”きよの”。

昼と夜、バイトしてた。

賄いが、最高だった。

涎が、出てくる。

その話は、別で書こう。

そして、
今は、もう、ない。

数年前に、
建物の建て替えで、
ビルごと、
なくなってしまった。

建て替えられる建物たち。

でも、
想い出は、
私の頭の中に、
生きている。


 
ちなみに、
『踊る大捜査線』だけでなく、
多くの作品で今も活躍している、
俳優の小野武彦さん。
 
実は、
当時の成城木下病院で、
私の担当をされていた看護師の一人は、
その配偶者。
 
私が、
映画公開時に、
病院のベッドで、
映画公開に合わせて出版された、
公式ガイドブックに噛り付いてたところ、
こそっと、
それを教えてくれた。
 
ネームプレートには、
当たり前だけど、
小野って書いてあった。
 
 
役者になろうとしてた私は、
実際に関係ないのだけれど、
そんな不思議な出来事さえ、
運命だと考えていたアホだ。
 
 
 
将来、
長女と次女の誕生に大きく関わる、
成城木下病院に、
なんで、
私が入院していたのだ❓
 
当然の疑問だ。
 
 
ネタ晴らしだ。
 
 
20世紀の頃には、
成城木下病院は、
産婦人科だけでなく、
内科など、
幅広く経営していたのだった。
 
むしろ、
内科がメインだった記憶さえある。
 
なので、
私は、
内科の入院患者だった。
 
 
夜中に、
当時一人暮らしの狛江の古いアパート、
親和荘
 

胃の中を、
完全に空っぽにしながら、
便器は、
真っ赤っか。
 
カオスだね。
 
断片的なイメージ映像が、
頭の中に、
かすかに残ってる。
 
 
当時から付き合っていた妻を、
狛江駅まで送って、
そのアパートに帰って、
多分、
寝る準備をしてた気がする。
 
 
突然の腹痛と吐き気。
 
ほとんど、
気を失いつつある状況で、
自分で、
救急車を呼んだんだろうか。
 
それとも、
当時の妻が、
私からのSOSで、
呼んだんだろうか。
 
スマホどころか、
ケータイ電話さえなかったよ。
 
その安アパートには、
留守電機能もないような、
コードの付いた簡易の電話機があった。
 
ギリギリのところで、
それを使うことはできたんだろうね。
 
 
先日、
世田谷通り沿いにある、
そのアパートの前を通ったら、
まだ、
あったぞ。
 
あれから20年以上も経ってるということは、
どんだけ、
古くなってるんだろう。
 
昔のアパートは、
頑丈に造られていたのかね。
 
 
 
えっ、
何の病気かって❓
 
 
これも、
ホントにウソみたいな病名なんだよ。
 
 
病原性大腸菌O-55
 
 
そうなんだよ。
 
病原性大腸菌O-157、ではなく。
 
 
O-157は、その少し前に、流行ってた。
 
給食で広まったとか、なんとかで。
 
 
でも、私は、157ではなく55。
 
 
そんな感じです。
 
 
一般的では
なかったんだよ、
その当時から、
この私は、、、
 
 
 
 
それでは。
 
 
【いつか、また、どこかで】

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