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ひとりと孤独

皆様、自粛期間中いかがお過ごしだろうか。

このSNS時代において「ひとり」と「孤独」は貴重であり、軽賤である。

人間にとって「ひとり」は大事な時間であると思う。

私にとっての「ひとり」とは決して1人できることではなく、「自分を自分だと関知する人間がいない空間にいること」を指す。

学校からの帰り道、電車内には多くの人がいるが誰ひとりとして私を「私」だと認識する人間はいない。

私はその「ウチ」と「ソト」の間、この束の間の「誰でもない私」になるのである。

SNSを開けば本名を知らずとも私のパーソナリティーを知っている友人が多くいるし、学校と実家とバイト先とSNS空間全てに所属している(そしてほぼ毎日関わりのある)私にとって、この「誰でもない私」になれる瞬間は貴重で何にも変え難いくらいホッとする。

我ながら生きるのがヘタクソだな、と笑えてくる。

また、その分「孤独」も浮き彫りになるのである。

いくらSNSの「仲のいい繋がり」があっても、「他人と自分」の差が浮き彫りになってしまってより自分が惨めに感じる。

SNSは孤独だ。友人同士が話していればなんとなく気軽に会話に入っていけるが、SNSだと気を使う。

なぜならどのくらい限られたコミュニティ間で話しているのか、どのくらいの熱量で話しているのか、なんとなく掴みづらいからだ。

そして、文字として電子記録として私の発言が残ってしまうことが怖い。

誰かを無意識に傷つけているかもしれない、それがSNS上だけの友達ならともかく、大学やバイト先ならどうだろうか。

想像しただけで恐ろしい。

故に繋がっているようで「孤独」なのだ。

ここ最近友人たちとテレビ電話や通話をしているが、皆毎日連絡するような友人達ではない。

毎日連絡をとる事が悪いのではなく、私と友人たちのお互いのちょうどいい距離感とはそういうことなのだ。

私と彼女たちはもう5年以上の付き合いになり、連絡を取らずとも私は私であると思われている自信があるし、彼女たちも彼女たちであるという確信がある。

連絡を取らずとも繋がっている感覚のあるような付き合いはきっとずっと繋がっていられるのだろう。

この自粛期間でそれが浮き彫りになった気がする。

そして私は現在、「ひとり」を求め「孤独」と闘い、そして時々友人たちと「繋がり」ながら日々を過ごしている。

あと1時間ほどで私はまた1つ歳をとる。

きっと彼女たちは12時ちょうどに連絡をしてくるような人ではないだろう。

だけど私は、友人たちから勿体ないくらいの愛を受けながら、また1年を生き延びるのだ。





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