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「育ててやったのに」と思ってしまうかもしれない未来の私へ

子どもは生きているだけで親孝行だ。

3歳の娘をつかまえて「育ててやっているのに」なんて微塵も思わない。
私達が望んで、生まれてきた存在。元気に育ってくれていれば、それでいい。

でもそう思えるのは、娘が3歳だからなのかもしれない。
親なしでは生きられない、儚い生き物。
やだ!とただをこね、母を叩いて怒られ、めそめそしていたかと思いきや、"I love you soooo much!" と抱きついてくる、可愛くて愛しくてたまらない生き物。

娘が大人になったら。
背丈も私と変わらなくなり、当然のように意思疎通ができたら。
守ってあげるべき存在だったはずなのに、突然繋いでいた手を離されたら。

今と同じように愛し続けるつもりでも、できないかもしれない。
もう今と同じようには愛してくれないかもしれない。

親の存在なんて必要としない強い生き物になったとき、私は今と同じように「元気でいればそれでいい」と心から言えるのだろうか。


先日、全私を震撼させる出来事があった。

始まりは、母からの誤爆LINEだった。

朝、出かける準備をしながらふと携帯を見ると、母からLINEが来ていた。
娘の誕生日プレゼント代を振り込んだ、と前日に母から連絡があり「ありがとう!大事に使わせてもらうね」と返信したところだったので、その返事かな?と思っていた。

文章は「補足:」から始まっており、どうやら私宛ではないようだった。なぜだかわからないが、最近の母はLINEを何度も送り間違える。

「補足:」の後にはこう続いていた。
「あれだけ親にしてもらっておきながら、なんという冷たさ。もらえるものはもらいますって、ホント甘えているというか、人間性の問題だと思うよ」

明らかに、私宛の文章ではない。
これは、私のことを誰かに話している?

「もらえるものはもらいますって」は、娘への誕生日プレゼント代について「ありがとうね!」で済ませたことを指しているように思えた。ちょうどそう送った後、母からの返信が途絶えていたから。

「あれだけ親にしてもらっておきながら、なんという冷たさ」の方は、もっと心当たりがあった。

娘の誕生日祝いについて話す直前、母と私はアメリカ駐在の任期について話していた。

父も母も、私たちが現在アメリカに住んでいることについて、快く思っていない。
父は絶対に自分の思いを私にぶつけてこないが、そんな殊勝な父をかわいそうに思う母が逐一「お父さんはこう思っている」と伝えてくるのだ。

一人娘が遠く離れた外国にいる心細さ。そしてその一人娘を遥かに超える愛おしい存在の孫(しかも可愛い盛り!)と会えない寂しさ。

「私たちももう若くないし、何かあったら、って思うのよ。」

その気持ちは、もちろん、わからないわけではない。
「何?ご両親、何かありそうな状態なの?」と私の友人は言う。
二人ともいい年なので、超絶健康!元気120%!とはいかないし、それなりにリスクを抱えているものもある。だけど差し当たって今すぐ何か起こりそう、というわけでもない。でもまあそういう問題でないのも、わかる。

駐在は、当初2年の予定だった。
ただ周りの先輩方は全員延長になっていたし、最長だと7年駐在した人もいた。
なので私は両親に何度も、何度も伝えたのだ。
「任期は2年だけど、延長の可能性もある。みんな延長してる。」と。延長の心算をしてもらおうと思って。

そうして2年が過ぎようとしたとき、1年の延長が決まった。私が両親にその旨をテレビ通話で報告したとき、母の第一声はこうだった。
「そう。そっちを選んだのね。」

その時の私の叫び出したい気持ちをわかってもらえるだろうか。

もちろん私たちは延長を選んだ。だけどそれは両親と駐在生活を天秤にかけて両親を選ばなかったことになるんだろうか。
人生って、そんな単純な二択なんだろうか。

人生がそんな単純な二択なのだとしたら、私達は駐在を選ぶ外なかった。夫はこちらの仕事にやりがいを感じているし、私はアメリカ暮らしが性に合っているし、娘は学校を楽しんで英語を流暢に話し始めているのだから。

だから私は、駐在3年目が半分以上過ぎ、さらなる延長の可能性が示唆されても、両親に何も告げなかった。もう「選ばなかった」娘にされたくない。

私は思ったことがそのまま顔に出るし、なんなら大抵声にも出る。それでも前回は声に出さないようにグッと堪えたのだ。次回は本当に叫んでしまうかもしれない。

と言うわけで、大いに脱線したのだけれど、両親は一刻も早く私たちに帰国してほしいのだけれど、一体いつまでアメリカにいるのか皆目見当がつかない状態だ。

そんな中、先日の両親とのテレビ通話で、娘の誕生日プレゼントの話題になった。
「娘がずっと欲しがっているロフトベッドをあげようと思っている。」と私は話した。両親は、そうかそうかと話を聞いていた。

その後、母からLINEが来た。「ロフトベッドを買うということは、来年もアメリカに住んでるってこと?とお父さんが言っていた。」と。

性格のひん曲がっている私は、「言っていた」という報告に対して返信するならば「そうですか」が適当かな、などと考えていた。

もちろんそのようなことは言わず「任期がどうなるかは会社の辞令次第だからまだわからないね」と返した。

すると「それはそうだけど、夫さんとあなたの意向はどうなの?」と返ってきた。
天を仰いだ。また選ばされるのだ。

でももうこうなったら選ぶしか道はない。こちらは何かを選んでいるつもりも、選びたいとも思っていなくても。

「私たちは残りたいと思っているよ」と告げた。

「正直に言ってくれてありがとう。昨日、娘ちゃんの誕生日プレゼント代を振り込んだ。」と、母は謎のお礼と振込の報告を一緒にぶつけてきた。

今まで正直に伝えなかったことはないのでお礼の意図が心底謎ではあったが、私はそれをスルーすることに決め込み、冒頭に書いたように「ありがとう!大事に使わせてもらうね」と返信したのだった。

そして、ようやく戻ってくるが誤爆LINEである。
「あれだけ親にしてもらっておきながら、なんという冷たさ。もらえるものはもらいますって、ホント甘えているというか、人間性の問題だと思うよ」
これは冒頭部分だけで、全文はこの4倍はあった。自分たちのお金はお世話になった大切な人たちに使いたいのに、それが言えないのが親の性なのか、と言ったことが書いてあった。

このLINEを読んだ私は、酷く動揺した。
「アメリカに残りたい」という発言が父と母の期待を大きく裏切ったことはわかっている。だからといって、ここまで言われなければいけないのだろうか。
あれだけ親にしてもらって?育ててもらったことはもちろん感謝しているけれど、私が私の人生を生きることは、人間性の問題だと罵られるに値することなのだろうか。

怒りと悲しみと悔しさと全ての負の感情が強い渦を巻いて私を真っ暗闇の中へ引き摺り落とそうとしていた。

幸か不幸か、この日は友人親子と公園で遊ぶ約束をしていた。
頭の90%以上がこのLINEでいっぱいになる中、娘と自分の支度をし、車に乗った。

冷静にならないと。事故る。絶対に事故る。冷静に。
と10秒に1回以上自分に言い聞かせながら、残りの9秒はLINEのことを考えていた。どす黒い塊になった様々な負の感情は、今や「憎しみ」にまとまりそうになっていた。

公園に到着し、娘たちは一緒に遊びだす。私はママ友さんと世間話をしていたものの、どす黒い塊はついに私の体内では収まりきらなくなり、堰を切ったように口から飛び出した。

気付いたら一切合切をママ友さんにぶちまけていた。

私の話をうんうんと聞いてくれた後、ママ友さんは言った。
「寂しいんですよ。寂しいし、帰って来てほしいけど、素直に言えなくて、そんなことになっちゃったんじゃないですか。」

うん、それはきっと、そうなのだ。わかっているんだけど。だけど。

そうだろうと脳内で想像している事象は、どんなにそれが確からしく思えても目の前で起こっている事象には勝てない。
目の前の文章は、私を人間性に問題があると冷たく言い放っているのだ。

「見なかったことにして、『またお正月に帰るね』とか言えばいいですよ。」と提案された。

それができたらどんなによいか。器の小さい自分が嫌になる。「すごいですね…私は…そんなに冷静でいられないです…」と私は俯いた。

「いや、自分の親だったら冷静でいられませんよ!」と彼女は笑った。私は、少し救われた。

でもそれで切り替えられるほど、傷は浅くなかった。私のメンタルは深い深い谷底まで落ちてしまったのだ。

帰宅後も頭の中はLINEのことでいっぱいだった。娘と遊ぶときもどこか上の空で、本当に申し訳なかった。自分でも驚くほど、動揺していた。

このLINEに、どう返信するべきか。人間性に問題があると言われて黙っているような私ではないのだ。言い返したいことが山ほどあった。

でも私は知っていた。どす黒い感情に任せて何かを伝えても、何も伝わらないと。はらわたが煮え繰り返りそうなときほど、後で思い返したときに「大人な対応ができたな」と自分を褒めたくなるような態度でいるべきなのだと。

だから、ママ友さんの提案ほどの対応はできないけれど、「親不孝な娘でごめんなさい。」と返事した。お金を無心したことは一度もないけれど、これからはお祝いも一切受け取らないし、育ててもらったお金には到底及ばないけれど少しずつお返しします、と。これが私の精一杯だった。

日本はまだ深夜なので、もちろん母からは何も返ってこない。
返事をしたらスッキリするかと思いきや、何も変わらなかった。

夫に連絡した。
幼馴染にも連絡した。
Twitterにも書き込んだ(その後消しました、反応してくださった方々、本当にありがとうございます)。

私の尋常じゃない動揺を察した夫は、仕事を切り上げて帰ってきてくれた。ちょうど娘は昼寝中で、私は夫の顔を見てわんわん泣いた。

私、すっごく悲しくて、すっごく傷ついたんだなあ、と思った。

私が「選んだ」ことに関して、私はずっと申し訳ないと感じていて、それを糾弾するかのような母の文章に、「お前なんてもう要らない」と言われたような気分だった。

「希望に応えられないのは残念だけど、罪悪感を覚える必要はないよ。」
夫の冷静な言葉に、私はようやく少し落ち着くことができた。

その日は金曜日。毎週金曜日は両親とテレビ通話する約束になっている。とてもじゃないけれど話す気分にはなれないので、父に「お母さんから来た送り間違いのLINEを見て動揺しているので、今日は話せそうにない」と連絡した。

アメリカは夕方になり、日本は朝になった。
母から着信があった。

「もーーーーごめんね!」という声の調子に驚く。あんなヘビーな内容を意図せず見られてしまった人のテンションなのかこれが?

話をよくよく聞くと、本当の本当に送り間違いだったようだった。母はとある友人のお子さんの、友人への振る舞いについて凄まじく憤っており、あのLINEを送ろうとしたのだそうだ。
母も自分の誤爆に驚いており、それを娘が自分のことと受け取ったことに更に驚いたようだった。

母から「そんなことを言うわけないでしょ」と言われたのだけれど、そうとは思い切れない歴史が私達の間にはある。今回の立場が逆だったとして、母もきっと私と同じ思い違いをすると思う。


結局のところ、あの言葉は私に向けられたものではなかった。だからこの全ては私の独り相撲だったわけだ。
娘の愚痴を友人にLINEでぶちまけた母親はいなかったし、それを意図せず見てしまい深く傷付いた娘もいなかった。

だけど私は覚えておきたい。覚えておかなければいけない。
「あれだけ親にしてもらっておきながら、なんという冷たさ。」という言葉が、自分に向けられたと思った時の、あの動揺を。
怒りを、悲しみを、悔しさを。


私は「あれだけ親にしてもらった」自覚がある。何不自由ない生活をさせてもらい、県外の大学に進学させてもらい、仕送りをもらい、留学までさせてもらった。そしてそのまま地元には戻らず県外で就職した。

親の気持ちを考えなかったわけではない。でもそれよりも自分の気持ちを優先して生きてきた。私は、母の言うように、「選んで」きたのかもしれない。

その罪悪感はずっと心の片隅にあった。自由に生きている罪悪感。

私の両親は、それぞれの両親にとても献身的だった。
親元を離れた後、近くに居れないからとずっと仕送りをし続けていた父。
親のすぐそばに住み、滅多に帰ってこない弟の分まで一人で面倒を見続けていた母。

お金を送るわけでもなく、近くに住むわけでもない、私。
親不孝な、私。

では私は誰のために生きるのだろうか。両親を愛しているけれど、私は両親のために生きるべきなのだろうか。

そんな思いに苛まれていた私に、「あれだけ親にしてもらっておきながら、なんという冷たさ。」と言う言葉は、突き刺さった。

だめなんだ。自由に生きたらだめなんだ。そんな私では愛してもらえないんだ。

でも、私は自由に生きたい。
両親のことは愛しているし愛されたいけれど、それとこれとは違うから。やっぱりそれは「選ぶ」ものじゃないと思うから。


そこで、娘のことを思った。私の宝物。私の人生で一番大切なもの。

この子に「あれだけしてあげたのに!」と言い放つかもしれない、将来の自分。

そんなこと絶対に言わない、と誰が言い切れるだろうか。
30年以上生きてきて、意思なんてものは簡単に変わると知っている。
孤独が、老いが、ホルモンが、体調が、人間関係が、お金が、意思を簡単に変えてしまうことを知っている。

だからこれは未来の私への手紙。
思い出してほしい。
もし娘に、私達の可愛いあの子に、「あれだけしてあげたのに!」「育ててあげたのに!」と言いたくなったら、
あのLINEを読んだ時の重たい重たい気持ちを、思い出してほしい。

産んでくれてありがとうだけど、
育ててくれてありがとうだけど、、
だけど、、、

その先を、娘に言葉にさせないでほしい。

片方の人生を片方に寄せるのではなく、
お互いが幸せになれる場所を探そうとしてほしい。

自分が娘としてそう強く願っていたことを、思い出してほしい。



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