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無宗教の私が、日常に「神様と話す」時間を取り入れてみたわけ

最近、聖書について勉強している。

アメリカ人のおばあちゃん(Jと呼ぶ) がマンツーマンで教えてくれていたのだが、途中からJの友人であるユダヤ人のおばあちゃん(Dと呼ぶ)も加わり、生徒1人に対して講師2人というなんとも贅沢な状況になっている。

このレッスンは週に1回、約2時間ほど。私たちは友達でもあるので、最初の30分くらいはお茶を淹れてお菓子を食べながらお喋りしている。

人生で全く縁がなかったキリスト教というものに、今すごく惹かれている。敬虔なキリスト教徒と話すたび、ここまで神の存在を確信できるものなの?と驚かされ、彼らがどう理解し信仰しているのかを知りたくなった。

聖書について学ぶことは、英語でもそのまま "Bible study" と言う。でも私たちはこの時間を "Bible talk" と呼んでいる。真剣なんだけどもっとライトで気軽なものとして。それに私たちは互いにたくさん話すから。

この "Bible talk" で私が学んだこと、感じたことを記録していきたいなと思う。

ひとくちにキリスト教といっても様々な宗派があるし、私はそれらがどう違うのかも知らないようなズブの素人なので、このnoteはあくまでJとDを通した私と聖書の旅の記録であることをあらかじめご了承ください。




私は今まで一度も、真剣に神仏に祈ったことがない。お正月に訪れる神社ではいつも感謝を述べてから家族の健康を祈るが、それはお盆のお墓参りでも同じで、祈る先が神仏でも先祖でも、その内容に差異はなかった。

だから私の周りのキリスト教徒たちが言う「神に祈る」「神と話す」「神との絆を感じる」といったことが全く理解できなかった。彼らが言っている意味は理解はできても「ああ、あれね!」とはならない。私が神社で祈るときは、いつもこちらから一方的に念を送っているだけだし。

だけどJやDの話を聞くと、彼女たちは本当に頻繁に神と対話している。
日曜日のミサや、困難な局面だけでなく、日常的に。

神が教えてくれる、導いてくれる、と言うので、ナンセンスかもしれないがズブの素人としては聞かずにいられない。
「でも、神の声が聞こえるわけじゃないでしょう?」「どうやって彼の教えを知るの?」

すると彼女たちは言う、
一人になり、神に語りかけるのだと。そしてその後は待つ。
待つと、神の教えが心に浮かんでくるのだと。

ふむ。

それって、自分自身と対話しているのでは。
うまく処理できない感情や出来事を言語化して、そこに向き合ってみると、自分がどうしたいのか、どうするべきかが浮かんでくることってよくある。

それを「自分の中から生まれてきたもの」と思うか「神が教えてくれたもの」と思うか、の違い。

ただ私が「自分との対話」と考えるこのプロセスを「神との対話」と考えることによる効果は大きい気がする。

そもそもうまく処理できない何かを抱えた時に、自分と向き合う時間を改めてとる人がどれくらいいるのだろうか。

モヤモヤの正体がわからない。でもそれを解明するために目の前に積み上がるやるべきことを差し置いて静かに考えるって、相当意識しないとできない気がするし、それができる人はある程度「自分」の優先度が高い人だと思う。

ただ、それをキリスト教徒が「神」に対してするならば全く話は違ってくる。だって神は一番大切な存在だから。目の前に積み上がるやるべきことの何よりも優先すべきものだ。

そしてモヤモヤを自分の中だけで咀嚼するより、神という存在に説明する方が、言語化が進むように思う。だって神に嘘をついてはいけないけど、人は自分に語りかけるときだって、嘘をつくから。

またその末に気付いた答えを受け入れるまでのスピードも違ってくる気がする。自分と対話して浮かんだ答えが受け入れ難いことはいくらでもある。
ただそれが神の教えなのであれば、受け入れる以外の選択肢はない。

「神との対話」、いいかもしれないな。
なんていうと怒られそうだけれども、そう思った私はある日から、心に自分だけの神様をおいてみることにした。

お祈りするわけでもなく、懺悔するわけでもない。ただちょっと話しかける相手として。

私は主に、自分の取るに足らない善行を報告している。

腹の立つことを言われたけど、感情的にならず丁寧に返事できた。とか
道路を渡ろうとしている人のために車を止めて待ってあげた。とか
エアコンのフィルターを替えた。とか。

ほんとーーーーーーに取るに足らないこと。人によっては息を吐くようにしている当たり前のこと。

でも人にとって当たり前かはどうでもいい。自分にとって当たり前かどうかが大事。

私は嫌ことを言われたら絶対に言い返したいし、すぐ渡れそうな歩行者ならわざわざ車止めずにさっさと走り去っちゃいたいし、エアコンのフィルターは極力替えたくない。

そんなみみっちい人間だけど、良い行いをしたいとは思っている。誰かに誇れるような、大層なものでなくて良いから。

みみっちい私の小さな一歩は、自ら誰かに言わない限りは誰にも知られない。褒めてもらうためにやっているわけではないから、それでいい。
だけどそれをそっと、心の中にいる私だけの神様に報告する。

「いいことできたと思う。へへへ。」

神様は何も言わない。でもそれでいい。私の小さな一歩を、誰かが見てくれている。それだけでなんだか嬉しい気持ちになれる。

JとDが言う「神との対話」を私が「自分との対話」では?と思ったように、これも私が私に語りかけているに他ならないし、言ってしまえば別に誰も見てくれてないのだけれど、それでもやっぱり、何かが違う。

もうこれは心持ちの問題だし、神様を信じるってそういうことなんじゃないかと思う。知らんけど。


だから私は今日も、小さな善行を神様に報告する。誰かに報告したら「そのようなことは"善行"には入りません」とたしなめられそうなことでも。

私と神様しか知らないからいいの。

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