繰り返される一つのモチーフ〜「日本の起源」を読んで〜
6-7年ほど前、お世話になっていた大学の先生が退職される際に膨大な量の書籍を処分しきれないということで、50-100冊くらい片っ端から本をいただいていった。それでも蔵書の1割にも満たなかった。残念ながら?自分が伺った頃にはすでに大半の書籍は持ち去られていった後で、その中でも自分の関心に近いのではないか、という本を探し、もらった。「人間の条件」などもらえた時には「これで自分も博識の仲間入りだ」などと浮かれていたが、難しすぎて今日に至るまで第二章から先に進めていない。本を手に入れただけでそんなように感じてしまうのだから世話がない。
「日本の起源」は貰った時であればまだまだ出来立てほやほやだったのかもしれないが、今や出版からは10年が経っており、10年が経って遂に読むことができた。自分の興味関心がここまで追いついていなかったということなのだと思う。あとがきで「10年後、この本がどのように読まれているだろうか」と著者は語るが、少なくとも自分にとっては10年前のものとは思えない新鮮さをもたらしてくれた。それは要するに、10年経っても日本という国は何ら変化がないということの表れなのかもしれない。そうは言ってもこの10年色々あったはずだというのに。
「日本とは何であるのか?」というのは教壇に立ち始めた頃から自分が追い続けていた一つのテーマであったが、本書もまた、このテーマを一つ前に進ませてくれた。とは言え、この書籍で語られる「日本の起源」なるものも、先達の議論に大きな疑問を投げかけるものではなく、著者の言うところの「起源の歴史」を整理して総覧的に並べてくれたものであった。つまるところ、日本で語られる起源とは果たして何であるのか、というのを、一つの視点から語ってくれたもの。
この起源なるものは、例えば丸山眞男が「今の永遠」と呼び、阿部謹也が「世間」と呼び、ロラン・バルトが「空虚な中心」、河合隼雄が「中空構造」と呼び、宮台真司が「終わりなき日常」とでも呼んだようなものなのだろうと思う。ある種の「普遍」とでも呼ぶべきようなものを日本という国は追い続け、ある段階でそれは全くの偶然とでも言うべき外発的な要因によりほぼ達成をされたけれども、現代においては再びそれが成り立ち得ない状態に突入している、と、そんなふうに本書を読んだ。
共著者の一人である與那覇潤氏は、これ以前の著書である「中国化する日本」において「中国化」というキーワードを用いてこの先の日本の行く末を論じているわけだが、この「日本の起源」で何気なく発していると思われる一言が刺さる。
自分としては、日本とはつまりこの一言に尽きるのではないかと感じた。中学校の歴史の教科書での書かれ方がそうであるように、日本の歴史とは一つのモチーフが延々と繰り返される。それは、一つの理想像を追いかけながらも、外発的要因によって中断させられ、自らを絶え間なく変容させる必要性に迫られ、その時々に応じた順応でのみ生き永らえてきた我が国の姿である。その変容・順応のために"天皇"という器が非常によく機能しているということなのだと思う。こうした歴史の中には、本著で語られるような無数の「トラウマ」が刻まれている。それは常に他者によって理想を"潰され"、受動的にならざるを得なくなった歴史であるといえよう。
おそらく、石原慎太郎的なものが志したor志しているのはこの「トラウマ」の払拭なのだと思う。対して村上隆はこの前提に立った上で、日本的な何かを「トラウマ」の対象に対してねじ込もうとすることを生業としていて、そこに「トラウマの払拭」を試みようとはしていないようにも見える。いずれにしても、ある種の大物たちにはこうした「トラウマ」の前提が共有されているのではないか、と感じることはある。
この歴史が果たして何を意味するのかというのはもうちょっと本を読み進めていきたいところ。辻田真佐憲氏の「超空気支配社会」というのが気になるので読んでみるつもり。「「戦前」の正体」も併せて。ずっと10年以上前の本ばかり読んでいるので、そろそろ最近のものに移っていきたいという今日この頃。
余談。與那覇潤氏は自分がすっかり追わなくなったSNS界隈で種々の意見を発信されているようなのだが、改めてwebにある與那覇氏の記事を読んでいると、氏自身もまた、一つの理想像を追いかけながらも、外発的要因によって中断させられ、自らを絶え間なく変容させる必要性に迫られ、その時々に応じた順応でのみ生き永らえようとするフェーズに突入しているのではないか、と感じるところはある。
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