「保護してくれてありがとう」の違和感
我が家には、2匹のネコがいる。
べっ甲のレヴィと茶シロのコタである。
いっしょに暮している様子を見るかぎりという心許ない根拠だが、まあ悪くないくらいには思ってくれていると自負している。
今朝のこと。雨戸を開けていたところ、ふと気配がして足元を見ればレヴィがいた。その瞬間、家の外とレヴィを隔てるものは一切なかった。
心臓が止まるかと思った。
びゅんと飛び出されていたら、もう二度といっしょにいられない可能性すらある瞬間だった。
雨が降っていたから、かもしれない。
ただ彼女の気まぐれであったかもしれない。
レヴィが私の足に頭を擦りつけた。
驚かせてしまわないようにゆっくり抱き上げると、じっと目を見てきた後でレヴィが聞こえない声で鳴いた。
「気をつけてよね」とでも言ってくれたようだった。
おそらくは猫と暮している全てのひとが、出来るかぎり気をつけている。
いっしょにいられなくなることがないように、だ。
もし彼女がびゅんと飛び出してしまっていたら、無事に戻ってきたとき私は涙を流す。見つけてくれた誰かがいれば何度でも「ありがとう」と言う。
そんなことを考えながら通勤電車に揺られ、目に留まった記事があった。
きっと選ぶのは猫のほうで、ひとの側にそんな大それた権利なんてない。
そう思えた。
ただ、1つ気になった。
寄せられたコメントの、あるいは文末の一言である。
よく見かける。
とてもありふれている。
猫を保護しました、に対する常套句のように。
何に「ありがとう」なのだろう。
かわいそうな猫ちゃんを助けてくれて、だろうか。
ありふれる「ありがとう」に反して、なぜ野良猫はいなくならないのか。
ひどい違和感に、私は理由を見つけられないでいる。
たとえば今もいるのか知れないがFacebookの「シェアさせていただきます」のような、ただ「そうしていれば」仲間入りを気取れる免罪符。
今日もどこかに「いいひとに見つけてもらって」などと耳触りのいい言葉で繕われて置き去りにされる猫がいる。
誰かが見つけ、その命に責任が負えるかを葛藤して抱きかかえ連れ帰る。
すると、見知らぬ誰かに感謝されるのだ。
全く関係のない、一切責任のない、見知らぬ誰かに、である。
だとすれば腑に落ちないのだ。
日々を保護に奔走する方の安堵かもしれない。
かつての後悔に苛まれた懺悔かもしれない。
あるいは、だとしても腑に落ちないのだ。
その違和感と、きょう身を以て知った恐ろしさの隔たりが埋められない。
朝晩も冷えるようになり、レヴィとコタはふとんにもぐり込んでくる。
猫は、かなり正確な時計とカレンダーを持っている。
きっと明日は休みだと、もう知っている。
さむいので、今夜はおでんにした。
味が染みるように、昨日のうちに仕掛けてある。
仕事を終えたら一目散で家に帰り、妻と日本酒でも飲みながら鍋を囲もう。
レヴィとコタをひざにのせて、背中を撫でていよう。
たぶん、それだけが気持ちのざわざわを落ち着かせてくれる唯一だ。
ぐるぐるぐると喉を鳴らすのを聞いて過ごそう。