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「自分で自分を認める」というアポリア

心の安定を保つためには「自分で自分を認める」ことが大切だと言われる。それが出来れば、他人の評価に振り回されることもないし、他人の目線を気にせず自分らしい生活が出来るようになる。そのように考える人は多い。

ここでは、そのような「自分で自分を認める」という行為は不可能だと主張した上で、どのようにその主張を乗り越えていくのかについて考えていきたい。

主体と対象の密着

「自分で自分を認める」という行為を単純化して「AでBを認める」と置き換えて考えてみよう。この場合「AでBを認める」はA→Bと表すことが出来る。

A→B

このA→Bの信頼性を保つには、判断主体であるAに対しての十分な信頼があることが必須条件である。判断主体に対する信頼が脆ければ、当然それによって行われた判断への信頼も出来ないからである。すなわちAを保証する外部(=X)の存在が必要になる。

X→A→B

このようにA→B(AでBを認める)を成立させるためには、その判断主体であるAの信頼が外部の何か(X)によって担保されている必要がある。

これにA=自分、B=自分を代入すると、「自分で自分を認める」すなわち「自分→自分」という図式が導かれる。

自分→自分

しかしこれは、無限循環に陥る。自分→自分の関係性を信頼するには主体である自分を認める必要があるが、今ここで求めたいのは自分で自分を認めることである。すなわち自分で自分を認めるためにはその前提として自分が認められている必要があるのだ。

つまり判断主体である自分の信頼性を担保する外部(=他者)が必要になる。ゆえに他者からの承認抜きに自分を認めることは出来ない。

他者→自分→自分

認識=存在か?

これに対して「いや私は他人の目を気にしていないし、自分で自分を認めることが出来ている!」という人も中にはいるだろう。

だが、ここで注意すべきなのは「自分で自分を認めている」と主観的に認識していることと、実際に「自分で自分を認めている」という事実が存在していることは全く別の問題であるということだ。

認識と存在は区別して考えなければならない。認識即存在とは言えないのである。

哲学的な議論をするつもりはないので深入りはしないが、何が言いたいかというと「自分で自分を認めている」という認識があったとしても、それはそう認識できるだけの肯定をすでに他者から受けているということである。

「自分で自分を認めている」と主観的に認識するためには他者からの肯定ないし承認が不可欠である。ゆえに「自分で自分を認める」ことは不可能である、というのがここまでの主張である。

誤解してほしくないのが、この主張は「自分が認められない」と言っているわけではないということだ。あくまでも純粋な意味で「自分で自分を認める」ことが不可能であるというだけで、自分が認められることはもちろん可能だし、外部の助けを借りれば「自分で自分を認める」ことも可能である(もはやそれは「自分で自分を認めている」とは言えないが…)。

どう自分を認めるか

ここまで、「自分で自分を認めること」は不可能だと論じてきた。では、一体どのようにして自分を認め、肯定し、生活していけば良いのだろうか?

自分がどういう人間かを判断する時、自分の周りの他者からの評価がその基準になることが多い。しかし、狭いコミュニティで生きていると、評価基準となる他者が少ないため、周りの人の評価が全てであるかのように感じてしまう。

しかし、様々なコミュニティに属して自分の世界を広げていくことで、彼らの評価が絶対的ではないことに気づく。そして、世の中には実に多様な価値観が存在していることもわかるだろう。自分が短所だと思っていたことでさえも、人によっては長所に見えるし、属するコミュニティによっては強みになるかもしれない。

例えば僕の場合だと、ラジオが好きとか勉強が楽しいというのは、コミュニティAでは浮いた存在として扱われる。しかし、コミュニティBではそれを肯定してもらえるし認めてもらえる。

他人の物差しが絶対ではないと知っているからこそ、ラジオが好きとか勉強が楽しいみたいなことを平然と言える。しかし、もし僕がコミュニティAにしか属していなかったら、どうだろうか。ラジオが好きなことや勉強が楽しいことが自分の個性であるとは気づけなかっただろうし、”他人の評価”に合わせてしまって本当にやりたいことが出来ていなかったかもしれない。

人の数だけ物差しは存在する。「なんか合わないな」と思ったら次の物差しを探しに行くことで、自分が輝ける場所が見つかるかもしれない。ただ、その事実に気づくには色々な人の存在を知ることが必要で、色々な人の存在を知るには狭い世界から抜け出す必要がある。

大学など既存の狭い箱から飛び出して、今の自分とは異なる境遇の人と接することは多様な評価軸を持つという意味で非常に大切だ。置かれた場所で咲こうとするのも大事だが、咲きやすい場所で咲くほうが負担も少なく、結果として大輪の花になる。

自分だけで自分を評価しようと思うのはやはり無理がある。程度の差こそあれ、他者の評価に依存することは避けられない。だから、広い世界へ飛び出して様々な世界を知ることで、仮面を被らずに自分らしくいられる場所を見つけることが出来るのではないだろうか。

自分がまだ知らないだけで、輝ける場所というのは存在するはずなのだ。



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