2030

最近、2030年あたりの日本の風景が夢によく出てくる。
生々しい手触りのその夢の中でたいてい私は自分の車を運転している。

2030年にもなると日本の車の3割くらいは自動運転のものに変わっているのだが、私は相変わらず"自分運転"である。

「椿貴ちゃん、自動運転にしないの?」
友人は助手席で不思議そうにしている。
「自動運転の方が事故も起きないのに」
友人は年月を感じさせない若々しいままの顔と声で、頑なな私を柔らかく説得していた。

「まだ不安なんだよね」
夢の中の私は苦笑いを浮かべている。相変わらずアナログが好きなのである。

別の日の夢の中でも、私は2030年あたりの日本で車を運転していた。
車を買い替えたのか車内の様子が真新しかった。
箱崎ジャンクションなのかまた別のジャンクションなのか、細かいことは分からなかったが、首都高速を運転していたところ、猛スピードで背後から飛び出してきた車に追い抜かれてしまったのである。

――危ないなあ。ウィンカーくらい出せばいいのに。

夢の中の私はさほど怒っていなかった。

――ああでも日本人あんなに沢山死んだんだものね。東京はもうどの道路もスカスカだし、ウィンカー出す人の方が少なくなったし、警察官も少なくなったから仕方ないのよね。

夢の中の私は何かに納得していた。

また別の日。私はイベントの準備の為に公民館を訪れていた。
受付には人がおらず、カードキーを勝手に使って入っていいということのようなので、カードキーを操りながら奥へ奥へと進んでいった。
大広間の規模感や備え付けのものをチェックしていたところ、窓の外に民家が見えた。

――またやってる。

中国語と思わしき言葉。薄汚れた身なり。
二十人はいるだろうか。
民家のひと間を使い寿司詰め状態になりながら、講を開いているのだ。
いわゆる家の教会というもので、未来の私にとっては日常茶飯事となっている風景のようだった。

そしてつい先日。現実世界の私は、車の買い替えを勧められていた。
「チラシだけいただいていいですか?」
私はチラシを受け取るなり紙面に釘付けになってしまった。
そこに載っていたのは、夢の中に出てきた車と同じ車種の同じ色の車だった。

人口密度が増している埼玉と、伽藍とした東京。
どういう深層心理が反映された夢なのか。今はまだ解析しきれていないが、こういう薄ら寒い未来の夢を、私は度々見るのである。





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