見出し画像

数学ができるのが辛い

 塾でアルバイトをしている。文学部に所属していたが、数学を教えることが多い。言葉を尽くして数学を教えていると、最近不思議な気分になる。

「これだけ話してることがこの数式にまとめられてるってこと?」

 説明している最中にそんなことが頭をよぎる。僕の中にいる「ロマンチストな僕」(登場回数は結構多い)は恥ずかしげもなく呟く。

 それって奇跡みたいじゃない?

 クサイけど、たしかに凄く綺麗だと思う。伝達のための究極の機能美と言ってもいい気がする。国籍なんか関係なく、システムさえ理解できれば誰でも分かる。そんな言語はなかなかない。ただ、なんか、あまりに綺麗すぎて違和感がある。違和感があるし、そういう綺麗すぎるものを教えている自分にも「やっぱりな」という諦めに似た感想を抱く。何かを失っている気がするのだ。

 

 小さい頃から数字が好きだった。小学校でプロ野球に夢中になったときから、その傾向があった。

 小学校の頃、大阪生まれの僕は宿命的に阪神ファンになった。そしてその年代の小学生としてはこれまた宿命的に藤川球児を好きになった。あの浮き上がるストレートには小学生の夢が詰まっているのだ。

 図書館に行って「週刊ベースボール」という雑誌を読むようになった。中日の岩瀬という選手を知る。通算最多のセーブ記録をもつらしい。つまり最強の守護神は岩瀬。嘘だ。藤川の方が絶対に凄い。藤川がナンバーワンだと思いたくて、そのことを示す記録を探す。ストレートの空振り率、奪三振率などのデータを見る。そういう記録がまとめられた本を図書館で読む。少年は数字と親密になっていった。

 また、「クローザー」という役割の起源が江夏というピッチャーだと知る。江夏を調べると当然奪三振記録が目に入る。401奪三振。どう言うことやねん(今はシーズンの最多奪三振が200くらい)。その時代の選手を調べる。要するにどんな選手だったのかを知るのに一番手っ取り早いのは、やっぱり数字になる。稲尾のシーズン42勝の記録(スタルヒンも42勝しているが、当時は勝利投手の条件が今と異なる。今の基準に直すとスタルヒンは38勝になる)とか、ノーアウト2・3塁の打率は長嶋が高いけどノーアウト満塁の打率は王の方が高いとか、そういうことまで調べた(ちなみにここまで何も参考にせずに書いている)。そういう数字を元に当時の野球を想像した。少年にとって数字は全てだった。神話みたいなものだった。

 「やっぱりな」

 

 中学、高校と進む中で自分が数学が得意だと分かっていく。もちろんそれで得をしたこともあるが、小さな違和感を感じ始めた。当時は意識してはいなかったけれど、心の底ではモヤモヤがあったと思う。そのモヤモヤは単純に言えば「国語をできたかった」ということになる。別に国語の点数が悪いということではないけど、数学の方がどう考えてもできる。そのことが何か、引っかかる。

 僕は大学で文学部に進むことに決めた。文学部に行けば、「文学」が分かると思ったのだろうか。モヤモヤと離れられると思ったのだろうか。一年の浪人を経て京都大学文学部に受かった。その年の入試で僕より数学の点数が高かった学生には会ったことがない。

 「やっぱりな」


 4年が経ち、文学がわからないまま大学を卒業した。何かの間違いで就職も進学もせずに上京し、アルバイト生活をすることになった。高時給を求めて塾講師の派遣会社に登録する。初日、派遣された塾で数学を教える。教え始めて30分で分かる。このバイト、恐ろしく向いてる。

「この問題のポイントは(偉そうな言い方やな)証明する等式に辺と角度両方あることやねん(見たら分かるわ)こう言うのは正弦定理使って(パッと出てくるのがすごいな)全部辺だけの式にしちゃう。(なるほどな)でもこれやと外接円の半径が出てくるのが怖いねんけど、(なんで先回りしてんねん)この式の形やと絶対消えてくれる(確かに)。思いつきで解けんこともないけど、式の形でこれはこのパターンって覚えとくのがオススメやな。(完璧やん)」

 初日授業の帰り際、春から集団で教えてほしいという話を持ちかけられた。今もその塾でお世話になっている。

「やっぱりな」


 何がモヤモヤするのか、自分ではうまく表現できなかった。数字という抽象的で機能的な言語を効率よく扱えるのは、(自分で言うのもなんだが)すごく「カッコイイ」ことにも思える。まわりも数学ができることを悪くは思わないから、モヤモヤをずっと無視してきた。

 無視?

 そう、多分ここにモヤモヤの正体がある。数学の抽象性に含まれる無視。数字の持つ最大の美点の一つが僕に引っ掛かっている。

 抽象性を説明する。例えば生八ツ橋を二つ、抹茶味とプレーンを買ったところにサークルで気になっている女の子にばったり会ったとする。一個あげたいと思う。その女の子が抹茶が好きだと言うのは知っている。抹茶味をあげたいけど、何も言わずに抹茶味をあげると気を遣いそうだし、「プレーンの方が好きだから」と言って抹茶をあげると、自分と彼女は違う味覚を持っているみたいで悲しい。気を遣わせることもなく、違う味覚だと思われることもなく女の子に抹茶味をあげたい。そんなあれこれを考えた挙句、全力で冗談の雰囲気を作って「そんな目で見られたら抹茶味の方あげるしかないやん!」と言って生八ツ橋を渡す。女の子は困惑する。みたいな出来事が「生八ツ橋の個数:2-1=1」になる。これが抽象性なのだ。

 

 わかりやすさのためにいろんなものを切り取って、数字だけで世界を表す。便利だけど、そういうのがおかしいと思う。おかしいと思っているのに、自分は本当に切り取るのが得意で、世界の複雑さを無視するのが得意で、そう気づいた瞬間にモヤモヤは「辛い」という形を持った。数学が得意なのが辛い。抽象性の前ではいろんなものが無かったことになる。藤川がどんな思いでメジャー挑戦したかとか、高度経済成長下で巨人のV9は国民にどう映ったのかとか、抹茶味をあげたい男の子の優しさとか、そういう世界の面倒くささを無かったことにして、自分に考えやすいように世界を切り取って、もうそればっかり得意で、嘘つきになっていくのが辛い。

 僕が文章を書いているのは、そう言うのが嫌になったからだと思う。数学は完全で、日本語は不完全だからだと思う。日本語は曖昧で、使い勝手は良くないし、不完全だけど、不完全だからこそ不完全な世界を表現できると思って、誰が読むわけでもない文章を書いている。
 数学ができるのはいいけど、ややこしくて、めんどくさい世界もちゃんと無視せずに生きていきたいと思う。完全じゃないけど、面倒くささを引き受けてくれる「言葉」とこれからも付き合っていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?