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恩師との出会い(機能神経学)

江崎機器主催のカイロプラクティックセミナーに行き始めると、さまざまな情報が入ってきた。
当然日本で初めてのDACNBつまりカイロプラクティック神経学の学位を取得した増田DCの情報も。

増田DCのレポートを読んでとにかく衝撃を受けた。衝撃ばかり受けているけど、理学療法士の世界では衝撃なんか受けたことない。
せいぜい「へー凄いねぇ」程度やけど、カイロプラクティックの業界はドカーンってくらいの衝撃ばかりだった。

この患者は左の黒質に機能低下があったので、そこに刺激を入力した…

こんなことが書いてあって、ホンマにビックリした!
黒質の機能低下ってどうやって評価したの?刺激入力ってどうやったの?

それから増田DCのレポートや寄稿を読み漁って、診断の法則性を見出そうとした。分かったこともあるけど、絶妙な感じで大事なところを隠していた。

居ても立ってもおれず、増田DCの治療院へ電話をしてこう言った。
「突然すいません。私は奈良で理学療法士をしている渡辺という者です。先生の様々なレポートや寄稿を読み、カイロ神経学に衝撃を受けました。ぜひ私にカイロ神経学を教えて下さい」

今から考えると診察時間になんと失礼な電話を…と思うけど、その時は必死やった。

増田DCは、「カイロ神経学は、私が決めるのではなくアメリカの本部のルールに則って行われています。国際教育基準を満たしたカイロプラクティック大学を卒業した人のみ受講資格がありますので、受けたければ大学にまず入ってください」

俺も諦めず食い下がり、「それは分かってるんですが、私も結婚もしてますし、病院の理学療法科の科長で、たくさんの患者さんと仕事を抱えてますので、大学進学は無理です。そこを何とか先生から直々に教えて貰えませんか?」と言った。

…まぁなんと言っても無理なものは無理(*´罒`*)

ただ増田DCは、「教えることは出来ませんが、あなたの治療は出来ますよ」と言ってくれた。

神経学的な診かたで、俺を診てくれるということだから、何かしらヒントがあるかもしれないし、何よりも雰囲気を肌で感じることが出来ると思って、その場で予約を取って、静岡へ向かった。

待合で緊張しながら待っていた。薄い壁の向こうから検査している声が聞こえてくる。
俺はワクワクしながらそれを聞いていた。
そして俺の順番がきた。

その時に思いもよらないことが起こった。
待合まで増田DCが出てきて、俺の前に立ったかと思うと「本日は遠路はるばるお越しいただき、ありがとうございます。院長の増田といいます。ご案内致します。こちらへどうぞ」と言ったのだ。

俺はビックリしてしまって、それと同時に完全にやられてしまった。

だって俺にとってはアイドル否カリスマ的存在の先生が、そんな事する?

普通は受付のスタッフが、そっちの方から「渡辺さん、中へどうぞ」って言うくらいだと思ってたから。

それから1週間、考えまくった…

そして意を決して嫁に言った「大学に行きたいんだ」この時35歳。嫁とは同級生つまり嫁も35歳。子供はまだない。
俺が大学に行くと少なくとも40歳くらいまで子供は作れない。
嫁はこう言った「アホなこと言うな!」

一言も返せず、さらに1週間「やっぱり行きたいなぁ」
この時嫁は何も言わなかった。

そして、ある朝何も言わずに入学試験を受けに行った。
面接もあるのでスーツ姿だ。
俺のいつもと違う姿に、嫁は「どこ行くの?仕事違うの?」と尋ねてきたが、俺は何も言えず、なんとか「うん、ちょっと…」と呟いたまま家を出た。

そして少し時が経ち、「受かってんけどなぁ」と言ったら、「どうせ行くんやろ」と言われ、覚悟を持って進学することにした。

そして入学して2ヶ月目に、カイロプラクティック神経学を受けさせてもらった。
これは異例のことで、最初の自己紹介でRMITの1年生の渡辺ですと言うと、その場が嘲笑とともにざわついた。
「1年って…」「分かんのか?」

そんな声が聞こえてきた。
その時すかさずドクターが、彼は理学療法士として15年やってきて、その実績をかって受講してもらってるんだと言ってくれた。
その一声でざわつきは止んだ。

それから俺は必死になって学んだ。
学校の講義もカイロプラクティック神経学もそれだけじゃなく、並行してアクティベーターメソッド、Dr.ナンブドゥリパッドのアレルギー除去療法も学んだ。

学生の間にアクティベーターもアレルギー療法も国際上級認定までなった。

増田DCとの出会いが、一介の田舎理学療法士だった俺が、治療家としてのスタートラインに立つ事になった。

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