古本市で買った本(Pさん)

 神学的なものを包括するように、宗教的なものがある。神学の効果は、思ったより広くはない。
 まるで、悟性を理性が追い越した瞬間のカントを読んでいるような気分になった。
 ルネ・ジラールの『暴力と聖なるもの』を読んでいる。
 私達がどんな空間に包まれているのか、思想家はけっこう問題にする。ジラールは、法的な空間のさらに外側に、宗教的な空間があるとする。
 法が生まれる瞬間には断絶があるのかもしれないが、まあ、宗教が今まで担ってきたものを、さらに超越する、非人称的な裁決装置みたいなものが担う、なんという所まで読んだ。
 今の日本を見ていると、その非人称的装置とやらが、誰がどうということに振り回されており、野蛮に近づいているということなのかもしれない、とも思う。
 もともと、西洋の理想としての裁決装置なんてものも、それが言っているように超越的かどうか、わからない。
 前述の神学というものが、そうだ。
 みんな、我先にと超越的なもの、空間が何に浸されているのかという話になってくる、思想の世界も、それが言っているほどそうなのかはわからない。まるで今まで大手を振って歩いていた空間が、くさやとか、屎尿の匂いで満たされているかのようで、なんだか狭苦しくなってくるという気もする。

 先月は、旅行に行ったり、古本市に足を運んだりと、割とせわしなく過ごした。
 その古本市で買った本の一つが、今の『暴力と聖なるもの』だった。
 他に、岩波文庫の『ダーウィニズム論集』というのも買って、これも読み進めている。
 ダーウィンの『種の起源』が発売されて、各界騒然となった五十年間の趨勢を、その周辺の学者の、今のところは擁護的な講演ばかりだけれども、集めて感じさせようという趣旨の本である。
 こうでもしないと確かに、『種の起源』とその理念がどう捉えられて生きながらえたのかという点が、それを読んだだけではわからない。
 ひとつの論が、何百年か残るというのはなかなかのことで、もうすぐ霞みそうなこれらの動物学者、博物学者の文を見ていて、なんともいえない気分になった。

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