Pさんの目がテン! Vol.50 岡本源太『ジョルダーノ・ブルーノの哲学』(2)(Pさん)

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 風を受けて海を素早く渡るもの、おそらく、波か、ちょっとした藻屑のようなものであるのかもしれない。ここで、坂口安吾の言いそうなことを書いていた、保坂和志の『ハレルヤ』の一節でも引いてみたら、さらに説得力が増すかもしれない。人は堆積したようなものではなく、その場限りの、光や波や風のように生きてるんだ、というようなことを、そこでは言っていた。
 ブルーノに話を戻すと、ブルーノは、「汎生命論」とでもいうような論理をかざしていた。かざす先は、人間―動物―物、というヒエラルキーに対してだった。
 一体、当時において、そんなことを振りかざして、どんな効果があったというんだろうか。

セバスト 好きなように言ってくれていいし、望むように理解してくれていいけれど、わたしは、動物たちのそうした合理的な本能を知性とは呼びたくないな。
オノリオ でも、もしそれを感覚とも呼ばないとしたら、動物たちには、感覚能力と知的能力のほかに、なにか別の認知能力が存在している必要があるね。
セバスト それは内的感覚の動力だって、わたしなら言うかな。
オノリオ 人間が自然に語りあえるようにする人間知性だって、そうした動力なんだと言うことができるね。アヴェロエスがしたみたいに、好きなように名付けて随意に定義と名称を限定するというのは、僕らの自由だ。あんたらの知性は知性じゃないと言うとか、あんたらがどんなことをしようともそれは知性によるんじゃなくて本能によるんだと考えるとかも、僕の自由さ。だって、あんたらよりももっと尊厳のあるほかの動物たちの行動(蜜蜂とか蟻とかの行動のように)が、知性じゃなくて本能って名称をもってるんだからね。そうした獣たちの本能はあんたらの知性よりも尊厳あるものだって言えるだろうさ。
(同、18ページ、これもブルーノ自身の著作内の引用)
「知性」か「本能」かというのは、恣意的な名称の問題にすぎない。唯一にして無限なる自然のもとでは、人間と動物との実体的な差異はすべて取り払われてしまう。こうして、ブルーノによれば、人間と動物とのあいだには「魂」「精神」「知性」のうえでの本質的な差異はないことになるのである。
(同、19ページ)

 やっぱり、翻訳者がうまいのかもしれない。目の前に見えてきそうな議論だ。
 知性と本能の差異も、取り払う。まるで、全部が海であるかのようだ。すべて更地にしておいて、次に何をするのだろうか。続きを読むしかない。
(雑感……「あんたらの知性は知性じゃないと言うとか、あんたらがどんなことをしようともそれは知性によるんじゃなくて本能によるんだと考えるとかも、僕の自由さ。」という言葉が刺さる。
汎生命論は、「もの」が受肉する瞬間を言葉にしていて、さまざまな創作行為と、相性が良いのだろう。)

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