Pさんの目がテン! Vol.69 処刑される哲学者 岡本源太『ジョルダーノ・ブルーノの哲学』4(Pさん)

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 岡本源太の『ジョルダーノ・ブルーノの哲学』を、読み終えた。

 今年半ばに読み始めた本だが、ようやくという感じだ。今後、こんなことが続くかもしれない。
 ちょうど真ん中まで読み進めて、そこで止まってしまった。今回、まとめて後半を読んだのだが、そのせいもあってか、前半と後半は印象が違った。より冷静に読み進めた。この本の最後に、ジョルダーノ・ブルーノについて、ジェイムズ・ジョイスが書いた短い評論が載っている。そのせいもあって、本論の最後はジョイスにとってのジョルダーノ・ブルーノ、という方面に向かって終わる。それは、確かに収め所でもあるかもしれない。要するに、中世というものは、えたいの知れない所がある。思考が発散する方へ指向するそれがわれわれには慣れない。むき出しの中世はまぶしい。あまりにも生の横溢だ。
 まあ、ここのところもイメージに寄りすぎたかもしれない。書いてある所から読み取った所を、のこりいくつか述べようと思う。

 ちょうど真ん中の、第四章「ペルセウス」。
 悪、と、労苦というものへの評価。悪とか、労苦といったものは、乗りこえて善に至る、という性質のものではなく、悪そのものが善であったり、労苦そのものが善であったりする、というのがこの章通しての、ブルーノの主張である。
 ここで、限りなく、出来すぎなくらいに、僕の知っているニーチェの主張に近づく。生の営みというものを考えるとき、なくてもかまわないものとして、悪とかがあるわけではない。悪の方が、生命力豊かだったりする。ブルーノの別の場所では、ストア主義的な、観照的な真理ということにも批判を加えている。ここもニーチェ的だ。「ツァラトゥストラ」の、月の顔を持った賢者、という章に、まさにそういうことが書かれていた。
 ただ、それを以て両者が関係しているとか、ニーチェがブルーノに影響されただとか、そういうことはどうでもいい。生を見つめた時に、きまって出てくる結論なのだろう。そこから、神学を見た時に出てくる結論というのも、両者で違う。
 そして、やはりこの両者の底に通じる哲学者というのが、ヘラクレイトスである。彼の「変転こそが世界の本質である」という態度。
 ただ、ヘラクレイトスになると、残存している資料の中では、本当に結論の部分くらいしか読めない。
 ブルーノの時代に戻る。ブルーノは、クザーヌスという哲学者の、極大と極小こそが一致するという概念に、多くを負っているらしい。そのことは、ベケットが、師匠のジェイムズ・ジョイスを論じた「ダンテ・・・ブルーノ・ヴィーコ・・ジョイス」の中にも、書いてあった。岡本源太によれば、ブルーノがとらえた、その極大と極小の一致というテーマは、クザーヌスのそのままとは違うらしい。クザーヌスは、主に数学についてのみ考えていた。最大の弧と最大の直線は一致する。最小の角度は、線と一致する、等々。しかし、ブルーノは、おそらくそれを利用するような形で、それを、主に感情にあてはめていく。最大の悲しみというのは、最大の喜びを伴っている。最大の苦しみは……と続くわけだ。このあたり、あまり詳しくはないが、最先端の生化学的分析にも耐えられるんじゃないかと思う。詳しく知らないので深追いはしない。
 何百年かに一度、いわゆる「哲学」という、静かに机に向かって何事か考えている、観照的な、静謐境を良しとするようなイメージに、真っ向から勝負を挑む人が現れて来る。ブルーノは、前にも触れたと思うが、「英雄的狂気」というものを、哲学の究極の姿とする。だから、まさに、中沢新一が言っていた気もするが、バロックの、生の繁茂の哲学と、似たような空気を感じる。
 それをどう、ジェイムズ・ジョイスが吸収したか? という点も気になる。しかし、それは先走りすぎた。ジョイスのブルーノ受容は、コウルリッジに従ってのことらしい。それも確かなことではない。しかしやはり、ジョイスと、イタリア文学としてのダンテはわかるが、ブルーノとヴィーコというのが唐突なのである。それと、ベケットのつながりもそうだ。だから、この三者の関係というのを、頭の中で修正しなければならないと感じる。
 また、本文の流れに戻る。悪は肯定された。そして、その続きで、倫理の働きという所に移る。宗教の与える心理と、哲学の与える真理との関係は? と、一時期知識人の間で悩まれていたらしい。どちらにも、それぞれの真理がある、とする立場を、「二重真理説」と呼んだらしい。それらの議論に対し、ブルーノはまた独特の立場を取る。というか、バランスを取らず、宗教を世俗的役割の中に回収するような感じで、哲学の真理と引き離す。いわく、「市民の交際にとって真理は不要である以上、その交際を支えることを目的とする宗教は、真理を語るものではないからだ」。
 当時の、宗教、とくにキリスト教などの影響力を考えると、そう無邪気に言えることは不思議なように思う。もしかして、そんな態度を見とがめられてキリスト教に処刑されたんだろうか。
 何にせよ、どの著書を取っても難解であるという噂はあるが、その端々に伺えるアイディアは、新しすぎるものがあった、というのは、確実に言えるかもしれない。(続く)

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