Pさんの目がテン! Vol.13 モンティ・パイソンと英国の秋(Pさん)

 先日、モンティ・パイソンのテリー・ジョーンズが亡くなったというニュースをツイッターで見掛けた。子供の頃に、『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』の映画を繰り返し見て、ゲームをひたすらやっていたものだった。モンティ・パイソンもそうだけど、イギリス人の芸能、文芸もそうだけど、マジメな所はあるが、同時にグロテスクな要素も、どこかにあるように思っていて、それは定説にもなっていた気がする。
 以前、ウルフの「E.M.フォースターの小説」を取り扱った回で触れた、吉田健一の「英国の四季」を読んでいて、そのグロテスクさというものの由来を見たような気がした。

 併しこうして英国の秋がきらびやかで濃厚なのは、それが腐敗と死の観念を誘うものであることも認めなければならない。木の葉が極彩色に変り、その上に青空が日本ならば山国でしか見られない紺碧の空間を拡げ、林檎の木の枝を重くし、日暮れ時になる毎に建物の屋根が金色と紫に染まれば、その豊かな色調そのものが直ぐにそれが空に帰することの代りに、次第に色褪せ、変色して、腐敗の状態を呈することになることを思わせる。
(吉田健一『英語と英国と英国人』、「英国の四季」198-199ページ)

 このあとに、英国の果樹園のそばを歩いていると、林檎がどんどん落ちて腐ってそのまま土に還ることが秋にはよく見られ、日常的な光景であることから、「英国の詩人が例えば死を歌う時、その方法が如何にも具体的であるのとも関係があるように思われる」と続く。その代表として引用している、ドヌの、

骨に巻き付けられた一束の金色の髪、
(同、199ページ)

 という詩にそれが現れているという。
 シェイクスピアも、価値転倒的なグロテスクなセリフが多い。
 死んで土に還るということに対して、「眼を蔽わない」。「骨になった自分の腕には恋人の髪が巻き付き、枯れ葉が土に変り、それが春に水気を含んで黒くなるというようなことを、我々に忘れさせずにいるものが想像力でなければならない」。ここで話は英国の季節やその反映である感受性から、「そもそも想像力とは」という話に変わる。吉田健一の筆というのは常に軸足を定めず、というか軸と外周がいつの間にか反転して別の方へ転換してそこが今度軸になる、という独特な運びをする。これはなかなかクセになり、読んでいると書くときに書き方が移ることがある。
 実際に起きていることに対して目を蔽わず、グロテスクであっても描写するというのが「自由で、健全な」想像力である。この逆説的な表現に感銘を受け、これによって、モンティ・パイソンの、四肢をアーサー王に切断されながらピョンピョン飛びはねて剣を振り回すブラックナイトとか、牛をカタパルトで投げてくるフランス人の衛兵とか、全部裸足で踏みつぶすとか、笑えなくなるギリギリのところまでグロさを追求し、それでいて「アーサー王伝説を最も実証的に再現した映画である」と言わしめる、現実を踏まえてのグロさといったものの一端が説明されたような気がしたのである。

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