Pさんの目がテン! Vol.76 笹舟 横尾忠則『言葉を離れる』2(Pさん)

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 話を戻すと、ノストラダムスの大予言というのは、人類の運命とされたが、それはじつに悲劇的な想像力を倍加させて広がり、誰一人その運命から逃れられない、などと言われた。それと比べると、横尾忠則の言う運命という言葉は、それに抗い難い、自我を持っている個人としては、という性質は変わらないにもかかわらず、なんと自由で、チャランポランであろうか。
 横尾忠則の、自身を振り返ってみてつくづく感じる、自分に課せられた運命というのは、こうだ。氏は絵なんか描きながら高校生活をエンジョイしていた。絵を生業にしようなんて考えておらず、親もそう考えていた。親は、家に金もないんだから、進学もせずとりあえず家業を継げばいいんではないの、氏もそう思っていた、というか、自分の行く末なんてものは何でもよいと高をくくっていた、ところが、教師が、氏の描いた一枚の絵に目を止めたぜひ美大の受験をすべきだ。その意見に対し、氏と氏の父親はどう反応したか。そう、教師がいうんならそうか。そうしましょう。こんな具合だった。そして、受験勉強がはじまった。受験勉強は、じつに身を削るものだったにもかかわらず、なんの為にやっているのかよくわからない。塾講師の言うように、とりあえず学んでいた。しかし塾講師が受験の寸前に突然言い放つ。君、この受験は止めなさい。どうして? この受験。ムリだ。なぜなら、宅にお金がないから。
 ええ? 何それ。氏ではなく、読者である私達の嘆息である。なんで今になって塾講師がそんなこと言うの、謎。そこは保留して話は進む。
 氏はそれから直接就職の道に進む。以下はその先生の言葉である。

「どこでもええか。近くに印刷所があるけど、そこやったら頼んだるわ」
(同、48ページ)

 かくして、「印刷所の版下描き」になった。
 しかし、本人が「目指す港もなくただ揺れる時間に漂う舟」と表現するように、プカプカ浮き沈みがあったのちに、印刷所の仕事は、ある日その印刷の原本のようなものを、サボって空き地かなんかにボーっといた時に雨が降って濡れて台無しになってクビになった。なんだちくしょう。これも運命だ。この理不尽さ、ノンキさ。それからいくつか絵系のアルバイトをして、とある喫茶店に入ったら、ぐうぜんに、灘本(なだもと?)という、山陽電鉄の宣伝部にいた人とはち合わせて、神戸新聞に「カット」を描くことになる。……
 自分は、周りの人間の言うなりになって、言われたことをやる。しかし、そうしているうちに、気がついたら今の路線につながっていた。元をたどればそれはその「カット」から始まったし、それ以前にも以後にも密接につながっている、どこも揺るがせにできない、無責任な親の発言も、先生の発言も、そこに含まれている。しかし、何というチャランポランな運命だろうか、宿命だろうか。そこには、自分では決して決めないという強い決意が輝いている。こういうの、私は好きだ。
 運命という言葉は、命を運ぶと書く。「命」という字自体も、白川静にいわせると「令」と同系統、ほぼ同じ字だといっていい字義の近さがあり、何かの「命」によって運ばれる、という意味があるらしい。その運ばれる容れ物が、確固たるものである保証もない。ササで作った舟のようなものかもしれない。
〔脚色していないのを読みたければ、本書をどうぞ。〕

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