Pさんの目がテン! Vol.33 『フォースター評論集』より(3)

 前にも考えた、聖書と嘘ということについて、またはからずも舞い戻ってきそうだ。

言葉にはふたつの機能があり、その組み合わせは無限なのである。聖書が言うとおり、この世には「すまいのたくさんある家がある」(「ヨハネ伝」一四・二)とすれば、それがあてはまるのは、まさに言葉の家である。
 この印刷物の列をながめて、もう一度「書いた人の名前を知りたいか」と自問してみよう。署名がなければいけないかどうか。問題はがぜんおもしろくなってくる。言葉が情報を伝えるばあいは署名がないといけないことは、はっきりしている。情報は嘘でないことが建前なのだ。
(『フォースター評論集』(岩波文庫)、「無名ということ」、45ページ)

 もっとも、その二つのことは別の次元というか筋で考えている。
 まず、聖書について。ウルフがフォースターを評している、以前読んだ「E・M・フォースターの小説」の中で、フォースターの小説は、理想的な部分と、諧謔的な部分が不調和なほどきわ立って並列されている、といったことを言っていた。小説の中で、理想的な、何かについて、小説の中で存在させようとしている。その理想というものを構成する、導きなのか到達点なのかわからないけれども、軸となっているのが、フォースターの場合には、きっと聖書なのである。
 そして、それでいて、「オリエントに敬礼!」と言っている。考えてみれば、「敬礼」である。何という単語が敬礼と訳されているのかは知らない。この中で、イスラム教の人間がどういう世界で暮しているのか、を描きながら、作家としてそれを他人事としてではなく当事者として描けている作家がいる、その作家とは、という風につながっているのである。しかし、その実際の距離とは、あるいは、フォースターがその距離を眺める目とは、……という風に、こちらは考えざるをえない。
 ほのめかすような書き方をして申し訳ないが、ひとつには先の結論が出ていないのと、もう一つは、聖書を取り扱うということへのデリケートさが、踏み込みを浅くする。ともかく、フォースターの小説と、聖書に、何かしらの関係がありそうだ、としておこう。
「嘘」については、全く別で、小説への署名と、小説にとっての事実の二重化ということについて考えさせられる。もしかしたら、それについても高名な思想家がどう言っているとか、それについてはもう知っている、ということを言いたい人もいるかもしれない。フォースター含めいわゆる先行研究というものにぜんぜん当たれていないのだ。許してほしい。
 二重化とはどういうことか。考え方によっては、何重にもできる、操作の仕方次第だ。
 ある小説が存在するというのは、その中身がどれだけ事実とかけ離れていようとも、それ自体が事実のひとつである。その、小説が書かれたという事実を保証するのが、その作者名という署名である。その枠内において、事実である事実と、嘘である事実が発生することになる。それが、ここでいう二重化である。最終的な「事実」を、基底で支えているのが、「筆者」ということで、筆者に問いただせば、あれはじつは本当のように見えるが嘘だった、またその反対である、など聞くことができ、なにより、「どういうつもりで書いたのか」など、聞くことができる。
 しくみとしてはそうなっているけれども、じつはそれは実際に小説を書いてみると不明瞭な部分も出てくる。また、作家として、その部分に目をつけて、あえてはぐらかしたり説明において嘘を言ったりという操作を加えるような人もいる。たぶん、先刻承知のことだとは思うけれども。
 これにも結論はない。ただ、思い出した。小説における事実は、少し複雑に構成されていて、その全体を、どこかで保証しているのが、作者というものだ、少なくとも一般的には、ということに。

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