詩について(Pさん)

 詩について考えている。
 僕は小説をしばらく書いてきて、どんどん無意味な方に寄ってきている。
 具体物を描くことには興味があり、物をどんどん細かく描くということはやっているけれども、そうする中で、そういう物というものが、なぜそこにあるのか、どういう風に並んでいるのか、どう生起、というのは何かが終わって次の物が現れるのかという点については、繋がりというのはあることよりも、ないことの方が多いのではないか、という考えに寄ってきているので、そこに例えば紙パックが転がっているとして、その先に排水溝があったり、周りにアクセルやブレーキが散らばっているという風に、僕の中では繋がる。それには理由がなく、突然誰かが喋り始めるかもしれないし、電波が目の前を流れているように見えるかもしれない、要するには次に何が現象するのかというのは、無作為であり、自分が次に何を言い出すのかをひたすら見ている。
 そうした書き方を、結果として外から、改めて自分がということだけれども、眺めた場合に、詩に近接するところが出てくる。
 これを小説だといって抗弁する人もいよう、だけど小説としてそこにあればそれでいいけど詩だと思って眺めても別にいい、書くことがあって何かのスタイルを得た場合に、それが何だというのは意識してもいいのかもしれないけどまして反論などするだけ疲れるだけなので、とりあえず書いていればいい。
 今までそう思っていた。詩というものを今まで知らないとか関係ないというスタンスを取り続けてきたので、結果として、それでは詩として書いてみようとなったときに、何のバックボーンも理想像もない状態で書くというのは、それはそれで茫漠とした、何か不毛なものを感じずにはいられなかった。
 詩を詩として創作する人。周りにはいくらでもいる。僕はたいていそういう人の文章を読むと、なにをかっこつけて、とか、よくもまあ燕尾服でも着込んだような文章を書けるな、と思うだけのことだったのだが、小説を小説として書く人を同じように思う人もいるように、詩には詩の内部律みたいなものがあるんだろう。
 詩人として吉増剛造を挙げることはあるけど、これも、創作に当たったら読み通すことが難しかったり、なんとなくスタイルはわかったけれどもそれが直接心に入ったというよりも、吉増剛造を親しく読んでいる人が、自分の尊敬する作家だったりするというところから繋がりを感じて読んでいるということの方が強い。詩から直接感銘を受けたという経験が少ないので、それで小説から離れてきたら詩に近づくだとか、偉そうなことは言わず口を噤まなければならないところなのかもしれない。
 こんな持って回ったような、当たり前のことを並べているのは、今日も書くことが思いつかなくて口当たりのいいことを転がしているだけだともいえる。

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