本を作って売る 文学フリマの御礼(Pさん)

 大げさに言えば、本を作り、周囲にばら撒くことによって、今まで持っていた何かをさっぱりと捨て去り、いわば生まれ変わって、次の新しい何かをすることができる、という気分になることができる。
 もう、このような試みは二度とやらずに済むんだ、という安心感がある。

 文学フリマ東京、自分では行けませんでしたが、開催してくださった人、サークル主宰のウサギさん、本を買って下さった何名かの方々、全宇宙の星々と星間物質、そしてとりわけホルヘ・ルイス・ボルヘスさんに、厚く御礼を申し上げます。
 今回、そもそもこういったイベントを開催すること、それに参加することなどについて、賛否があり、自分の中でも、いろいろな思いや言い訳が去来するわけですが、それらは、おおよその所で、他にこのイベントに関わった人々の言う所と、それほど変わらないと思うし、なにより不慮ではあったけど参加できていない身で語ることも憚られるので、ここではそれらは省いて、シンプルに、開けて良かった、配れて良かったと言っておきます。
 そして、まだこれといったレスポンスはないものの、自分の中で、「Pさんの目がテン!」という、名前はフザけ散らしているが内容はいたってマジメなつもりで書いた、書評本、といっていいのか、そしてそれに需要があるのかはわかりませんが、とにかくそれを製作して、配ることができたというのが、冒頭では気取った物言いになってしまったけれども、おおよそそんなようなことを思い、ひと区切り、整理がついたというのが、大きな得られたポイントです。
 ひとつには、自画自賛ではないけど、「なかなかやるじゃん」と思えた箇所があった。本を読むというのが、自分にどういう影響を与えるのか、外から見るようにして再構成することが出来た。
 本にする、本として形にする、というのは、喪の作業に匹敵するような、象徴的な作業だ、と、保坂和志も、師匠格にあたる小島信夫の『寓話』を自らの手で再版する際に、言っていた。これも大げさかもしれないが、死んだ人の部屋、物品を整理するのに似ているかもしれない。
 一冊の日記帳が、見つかった。私はそれを、開かずに燃やしてしまった。それだけでも充分な喪の作業になる、と思う。
 話がそれたけれども、noteに書き散らしているだけでなく、本の形にすることによって、自分の読書に対する姿勢というのを、再認識することが出来た。
 ひとつには、マイナスなことかもしれないが、えらいテキトーに読んでいる。その本を読み始めたそばから、もう「目がテン!」に使っている。しかし、僕は、本を読んでいる間の高揚感、なんともいえない気分、読んでいる途中に頭をすばやくかすめる何の関係もないフレーズ、といったものこそが、一番の読書の効用である、という教育を受けてきたので、ひきつづき、このようなスタンスで良いと思っている。もちろん、何かを知ることによって、より豊かに読むことができれば、と思うが。
 その一方で、何度か読み返しても「まあまあ良いこと言ってるじゃん」と思えるところもあり、そういう所は、必死に、その今言ったような、高揚感のようなものを追っている道中で発見したことなのだろう、と思う。それは、音楽でいうところのグルーヴのようなものだ。流れていないと、現れて来ない。流れが止まると、形を失う。物としては固定されているから、不思議な話ではあるが、形として保存できる読書というものはない。
 こんな風に、内部律を失うことなく、ひき続き「目がテン!」の営みを続けられたらと思う。
 ずいぶん独りよがりな反省になってしまったけど、この感触というのが他の人に伝わるものなのかどうか、はなはだ気になるので、今回買って下さった何名かの方からの感想がもしあれば、頂きたいと思っています。
 そして次は、物理本で買うということの付加価値を、大幅に増やすことができないかと、計画中です。

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