Pさんの目がテン! Vol.32 『フォースター評論集』より(2)

  先日僕が、浅薄にも考察した詩と小説について、フォースターも書いていた。それが妥当なのかどうかは知らない。ただ、つながっているから紹介するまでのことだ。
『フォースター評論集』の中の、「無名ということ」において、ある詩が、いわゆる詠み人知らずであるか、それともはっきりと記名されているかによって、われわれの感じ方に変わりは出てくるかということについて、考察している。まだ結論の部分は読んでいないけれども、その寄り道の中で、「世界中の印刷物をあつめて、一山」にするという仮定をしている。そして、「その山を一列にならべて、純粋な情報を片端に、純粋に雰囲気だけを生み出す作品を反対の片端に」、いわば情報から情感までを一つのメジャーにして並べるという想像をしている。フォースターは、その「雰囲気だけを生み出す」端に位置しているのは詩や詩集で、その隣に位置しているのは小説、その近くに戯曲などがある、と言っている、それから小説や戯曲には、どこかしら信頼されるに足る情報が含まれるというのだ。
 急いで、反論することもできるだろう。限界まで事実のように見せて、最後のところで全て引っくり返るような小説というのもある、小説の良さとはそのような場所にある、あるいはその事実の部分が可能な限り、宙吊りになっているところこそがそうだ、例として……などなど。そして、それを以てこのエッセイの執筆当時から百幾年経って、小説が発展した、と結論づけてもいいかもしれない。しかし、このエッセイを読む、というところに立ちかえれば、何となく、大人げない反論の数々だという感じがする。
 小説には、信頼するに足る情報がある。もっともかもしれない。当時のイギリス小説というものが、とくにそういう性質をもっていたともいえるかもしれないし、現在でもそういうものを求めて読むという人もいるだろう。
 詩は、役に立つものではない、と、同じエッセイの中で言っている。これも、上記と同様の反論や、いや自分はこう思う、ということが言えるかもしれないが、これも飲み込むことにしよう。
 プルーストは、自分自身、読み手に対して正しい情報をもたらすという。
「情報」の端にあるのが、駅の近くに立っている、「停留所」という看板であり、フォースターは、それに雰囲気を生み出す力は全くないと言っているが、僕は、この「停留所」にこそ、雰囲気を感じるという気がしてしかたがない。
 これは、逆に、いわば僕は自分と同世代か、あるいはひとつ上の世代からある見方を共有して、あるいは引きつぐような形で小説とか、事物に向かう態度というのを育てられていて、その結果、この「停留所」に「雰囲気」を感じるようになったのではないか。そして、それは、小説というものが、そういう情報の部分まで、逃げてきた結果なのかもしれない、と今思った。
 その「逃げ」の感覚を、共有しあるいは誰かから降ってくる形で得て、それを内面化しているのかもしれない。
 その結果として、フォースターの、このベクトル化にたいして、そこはかとない違和を感じるのかもしれない。
 まだ、ひとつのエッセイの半分もいっていない所だ。(続く)

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