Pさんの目がテン! Vol.67 戦闘民族 タキトゥス『ゲルマーニア』2(Pさん)

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 今、中程まで読んだ所だが、印象に残ったことのひとつには、それが理想化を経たものかはわからないが、サイヤ人じみた、戦闘民族として、ゲルマン民族を描いている所である。武器を議会などにまで持って歩いて、ほとんど裸の状態でいる。戦う時もそう。白兵戦を好む。やはり、サイヤ人じみている。
 そして、ゲルマニアの物資の全てではないにしても、その補充が必須である供給源として、他の土地や民族からの略奪を挙げている。ここだけ切り取ると、まるで人倫にもとっているとしか思えないが、そこにタキトゥスの側からの、道徳的糾弾の色は全くない。なんで? と思うが、それも想像できる、そこはどちらも古代に当たる人々だから、その書き手であるローマ帝国の人々も、現代の観点からして、道徳的に生きていた訳ではないということだ。といっても、当時ばかりを、現代の高みから批判するのは、現代の道徳もたえず変転することを考えて、自重しなければならない。
 それにしても、と、その倫理的な点はおいて考えるに、「それでずっと回るの?」と思ってしまう。あんまり自分らで農作とかしない、「~~石」と、武士の場合には数える、土地の領有について頓着しない、それで足りなくなるとここぞとばかりに血をたぎらせて(ゲルマン人は平時よりも戦時を好む、戦果を上げない者は一人前と見做されない)略奪に走る、それで取れるものを全て取ったとしたら、次には何が起こるだろう? と。今いったことは、あくまでタキトゥスの視点であって、本当にそうだったのかはわからない。しかし、そんな古代が本当はどうだったかなんて、わかりようがなくて、その中のおそらく第一級の資料こそが、これなのだろう。そして、おぼろげにしか覚えていないが、ローマの終焉ということも、この先にはある。訳者の解説の端々には、タキトゥスの、ローマという国の凋落を憂えているようなところが、本書に現れている、という表記も見られる。
 たえず戦っていなければ落ち着かない、戦いを前提とされた社会、というのはどういったものだろう、と、もしかしたら現代の人間として、自身を棚に上げてはおけない問題なのかもしれない、といった所で、本稿は終わり。(続く)

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