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被災者と非被災者のはざまでー自分の備忘録としてー

いま、文章にする理由

(2021年の3月に仙台で書き始め、書き上がったのは2024年の3月東京にて、です。)

< 2021年仙台にて >

あの日から10年が過ぎるんだって。

今日、私が住む街ではテレビも、職場の人々も口々にあの日の話をする。
東北で被災した人も、被災しなかった人も入り混じってあの日のことを考えた。

私はずっと、後ろめたかった。
被災者として扱われるのと、出て行った人として扱われるはざまで、この出来事をどう捉えれば良いのか分からず、考えることを放棄してきたからだ。一緒に上京した同級生や、全く東北にゆかりのない友人たちが、次々と故郷にボランティアに行くのを、なんとも言えない気持ちで見ていた。"ちゃんと被災していない"私が、辛くて行きたくないというのは甘えのような気がしたし、でもひどい現実に向き合うこともできずに、自分勝手な感傷にまみれて東京でうずくまっていた。
震災関連の作品が、次々と出てきたし、毎年今の時期になるとドキュメンタリーや当時のニュース映像が数多く流れるが、そのどれもを、直視できずにきた。

先日、あの日の地震を彷彿とさせるほど、大きな揺れがあった。その時に、自分では予期しなかったほど、私はパニックに陥った。
あの日がフラッシュバックして泣き叫び、我に帰った時には夫がオロオロしながら背中をさすってくれていた。
その時私は多分初めて実感できたのだった。「確実に、あの出来事は私にとっても、ひどい経験だったのだ」と。

被災者かどうか
当時から苦しみをどれだけ味わったのか
身内が死んだのか
何かを阻まれたのか
人生が大きく変わったのか。

それは、私が少しでも被災者のような顔をすると、自分の中にいる、「被災したひと」が問いかけることだった。そうでなければ、地震や津波の悲しみや酷さに傷つく資格などない、と目を光らせているのは私自身だった。

「自分は確実に、あのひどい出来事を経験し、それに影響を受けて生きている。」
そう実感し、自分で自分の感情を認められたことによって、被災者か非被災者かという言葉に囚われて、内か外かと気にして、あの日のことに目を背けてうずくまるところから、なんとか抜け出してみたくなった。
やっと自分で認められた自分の立ち位置から、あの出来事に少しずつ目を向けて、いつか経験として咀嚼できるようになれたらと思った。

もっとひどい経験をした人はもっといるし、経験に関わらず目を逸らしたくなるような現実と対峙して、ここまでの復興を一つ一つ積み上げてきたきた人たちも大勢いる。
自分は、その人達が向き合わざるを得なかった現実から逃げてきて、10年目に、やっとこうできるということを、鼻で笑われるだろうし、その間に出来たことを思えば情けない。でも正直な気持ち、やっと足を踏ん張れる気がするのだ。

その一歩としてまずは、自分の経験を文章にしてみることとした。

記憶の記述(上京まで)

10年前のその日、私は宮城県内の高校に通う、高校3年生だった。
卒業式も終え、第一志望に受からなかった悲しみも飲み込み終えて、両親と共に進学に備えた買い物をしに、街へ出ていた。
服を買ってもらったり、自分のノートPCを買ったり、ガラケーをスマホに換えたりして、エスパルの地下で昼食をとり、父の運転する車で家路についていた。
あと20分もすれば家に着くかというところで、信号待ちで止まっていたところ、両親と私の携帯電話から、忘れもしないあのけたたましい地震速報のアラートが鳴ったのだ。

そこから暫くの記憶は断片的なところも多い。
車がジャンプしているみたいな大きな揺れを体感していたが、これがどれくらい酷いことを及ぼす揺れなのか、全く分からなかった。
揺れている時に、私が座っていた後部座席のすぐ横に電信柱があり、ぐにゃんぐにゃんに揺れていた。私が死を予感した経験はそれだけだ。
母はパニックになり、父は必死に感情を殺してまずは家で留守番していた祖父母に真っ先に電話をしていた。
長い揺れが収まった後すぐ家路を急いだが、信号は消えていたと思う。今度は津波警報が、携帯から鳴っていた。往路で渡ってきた橋が崩れてしまったかなにかで通行止めになっていたのを、対向車線を走っているおじさんが一台一台に教えてくれていた。

しかし、そうなっても、私にはまだ、大災害が起きたという意識はあまりなかった。数日後には元通りになるような感覚で、父の運転する車に乗っていた。父と母は顔から血の気が引いていたと後に言っていたが、18歳の私には、冷静なようにしか見えなかった。
遠回りをして家に着いたが、リビングは幸い、多くの家電や棚がビルドイン式だったのもあり、そんなに強い揺れがあったようには見えなかった。
ただ、和室の棚に並べられていた大小のこけし約20体ほどが全て床に投げ出され、いくつかのものは銅の部分から頭が投げ出されており、何となく不吉というか、グロテスクなものを見た気持ちになったのだった。数分後には祖母が一つ一つ丁寧に直して床に並べたので、一瞬しか見ていないのだけど、その光景がしっかり記憶に残っている。
びっくりしたのは、二階にあった自室の様子を見ようとドアを開けたら、20センチほどのところでつっかえた時だ。ドアの脇に置いていた、胸の高さほどの棚が倒れたことによりドアを阻み自室に入れなかった。無理矢理ドアの隙間に体を捩じ込もうとしたり、ドアごと棚を動かそうとしたりしたが、どうにも自分の力では部屋に入ることができず、仕方なくリビングに戻った。
日が暮れ始めて、停電がまだ続いていることに気付いた。父は敷地内外の殆どを点検し終え、地割れや灯籠の崩れなどを家族に報告した。
家族の各々が自分たちの安全を確認しおえ、地震がかなり大きかったということを改めて感じたところで、ラジオを流し始めた。NHKのラジオは津波への警戒の呼びかけと市町村ごとの震度を繰り返していた。
そのときには、流石にひどいことが起こっているのかもしれない、と感じ始めていた。

ろうそくに火を灯し始めた頃、父がワンセグでテレビをつけた。やっと映像で周囲の情報が入ってくることになった。
目に入ってきたのは、おそらくずっと繰り返し流れていたであろう、沿岸地域が津波に襲われている様子をヘリから撮影した映像だった。それは私だけでなく、両親、そして祖父母にとってもショッキングな映像であったようだった。

今でも、津波の映像を見るだけであの時のショッキングな気持ちが蘇るようで直視できない。街が波に呑まれ、あらゆるものがバキバキと大きい音を立てて破壊されていく映像。人が乗っているであろう車が、歩いていた人が、人がいるかもしれない民家が、全て飲み込まれていった。
とりわけ、父は沿岸部に住む兄がいたので、避難所に無事いてくれることだけを祈り、充電も少なかったのでテレビを見るのをやめた。
その後はとりあえず今日明日のことを考えていたらあっという間に日が暮れた。

その日は冷蔵庫の中の足の早いものを、カセットコンロを使って茹でたりして食べた。余震が続いていたので、一階の居間に父と母と弟と妹と5人所狭しに客用の布団を並べて寝ることにした。旅行を除けば、12年ぶりくらいに両親と兄弟と一緒に寝た。

春前の雪が降った寒い夜だった。親しい友人たちの無事は一通りメールが通じるうちに確認していた。高校の途中まで付き合っていた、幼馴染の元彼からも「大丈夫?」というメールが来ていた。大丈夫、そっちは?と返してメールが通じなくなった。生きていてくれるならそれでいいな、と思った。そういう存在だった。

寒くて空気が澄んで、更には大規模な停電だったので星が本当によく見えた。
中学生の頃デートでよくプラネタリウムに行ったのだが、球体スクリーンの満天の星空を「東日本中が一斉に電気を消したらこのくらい綺麗な空が見られます」と説明していたのを思い出した。東日本が一斉に電気を消すことなんてありえないと思っていたが、それに近い状況が起きていた。あり得ない状況が起きていたのだ。
外に出てよく見ようとしてたら、母に「原発がどうなってるか分からないから中にいてくれ」と言われた。

次の日になっても状況は改善しなかった。
ワンセグを再びつけると、波が引いた後の沿岸部の映像が流れていた。そして、父の兄が住んでいたあたりが、更地になっている映像が映った。父の兄、つまり私の叔父は寺院の住職をしていたが、寺院が丸ごと流されたのか、墓もお堂もほとんど残っていなかった。だいぶ離れた小高い山の麓に、瓦礫が溜まっているのが見えた。
父が「これはダメかもしれない」と呟いたのを覚えている。父は、父の弟と連絡を取り次の日から避難所を回ろうということになった。
ガソリンが限られていたため、一番燃費の良い車に乗り、長蛇の列になっているガソリンスタンドに並びながら、片道1時間を毎日往復していた。
数日後に、叔父の妻である叔母と、従兄弟が避難所にいるところを、父たちが見つけたとのことだった。2人は、車で高台に向かっていたが、避難途中で車を捨てたところを、波に呑まれ、なんとか民家の2階のベランダの柵に掴まって波が引くのを待ったそうだ。
叔父は、避難途中に忘れ物をしたと家に引き返して別れたきり、消息が分からないということだった。
1日回ってきた様子を報告してくれる父の顔から、毎日疲れが消えないのを、私は何も言えずに見ていた。
父たちは避難所とともに、遺体安置所も見て回るようになっていたがなかなか叔父は見つからなかった。津波の遺体を一つ一つ見て回った様子、においや人々の様子、感じたことを、私は父から毎日聞いた。何も言えずに、ただ黙って聞いた。
それからさらに数日後、叔父が遺体で見つかった。流された寺院の中の、風呂の中にいたのを父が見つけた。
おそらく、屋内にいて、津波がどのくらい迫っているか分からないうちに、建物ごと流されたのだろうとのことだった。
父は、勤めて冷静に、叔父の遺体が見つかるまでの様子を、私たちに教えてくれたが、冷静に我慢も垣間見えて、でも私には、親の悲しみにかける言葉がなく、かえって辛かった。
叔父は寡黙な人で、私たちにとっては優しく見守ってくれているひと、という印象だった。お酒が好きで、酔うと少しいつもより饒舌だった。でも、思い出は少なく、私にとっては叔父の死よりも、2歳差の兄弟であった父の悲しみを目の前で見ること、それに対してなす術がないことが、当時の無力感を加速させた。

叔父が見つかった頃には、徐々にライフラインが復活していた。余震は日々起こっていたけど、勉強も仕事もなく、食べ物もないので、本当にすることがなく、兄弟で煎餅を分けて食べながらUNOをしたりしていた。少しずつ、同期の訃報などが入り始めていた。また、ネットが復旧したことにより、原発のニュースやそれに関するデマも耳に入るになった。何を信じていいか分からない前に、私たちはたとえそうであっても何もなすすべがない、という状態だった。家にあるものを少しずつ食べるしかなく、どこにも逃げられず、余震に怯えて、少しずつ伝わってくる現実を受け入れるしかなかった。

しばらくした後、わたしは、幼馴染の元彼と会うことにしていた。
半分海に沈んでしまった公園を見て、この人が元気に生きててくれれば良い、と思った。
初恋で、将来を想像もしたけど、どうも無理そうだから、どうか元気で生きて、と思った。
ずっと、どうにかやり直せないか、どこで間違ったのかと葛藤してきた気持ちに、地震の時の死の予感や酷い惨状が、生きていてくれればそれで良いという気持ちにさせてくれたのかもしれない。

叔父と同じく僧侶であった父は、日々沿岸部に通い、土葬の手続きをしていた。
火葬することが物理的に困難で、身元が判明したご遺体から一旦土葬を行っていた。
腐敗し始めている遺体とはいえ、それを土の中に埋めるというのは、火葬が当たり前の文化に生きる人間にとって、抵抗感のある弔い方だったと思う。父はそういうことも、努めて冷静に私たち子どもに見聞きしたことを伝えてくれていた。
実家を離れる日が少しずつ近づいてきていた。

記憶の記述(上京)

わたしは上京後、中高と友人のYと、2人でルームシェアして暮らすことにしていた。
震災前は親にはルームシェアを反対されていたが、震災で東京での部屋探しもままならず、準備もできないまま上京することになったため、暫くはYの母方の実家にしばらくお世話になることを、両親も渋々了承した。
新幹線は止まり、東京との行き来の手段は各高速バス会社が共同で出している「緊急支援バス」のみ。
東京でも、多くの大学は、次々と被災した学生を考慮して入学式の1ヶ月後ろ倒しを決めていたが、私の進学先の大学は、なかなかどうするかの判断をしなかった。Yの進学先の大学は、予定通り4/1に入学式を執り行うことを決定していた。
Yの予定に合わせ、私は入学式の延期発表を待たずに上京することにした。Yとともに緊急支援バスの予約を取り、Yのお父さんに家の前まで迎えにきてもらい、仙台駅東口のバス乗り場まで送ってもらうことになった。
流通もほぼ止まっていた頃だったので、1人で持てる最大サイズのスーツケースに、1週間分の衣服や生活用品、ちょっとした食料などを詰めて、それだけを持った。
実家を離れる時、どんな気持ちだったのか、はっきりとは覚えていない。混乱の中で地元を後にする後ろめたさから、数日前から親とは交わす言葉も少なかったが、少しのお小遣いと、仕送りのための預金通帳を渡してくれた。
祖父と祖母は泣いていたと思う。
後に、結婚式の時の手紙で父から、この時が1番心配したと聞かされた。両親の気持ちを思うと、今となってはもっとコミュニケーションを取ればよかったと思う。
情景や起こったことは朧げに覚えているのに、自分の感情だけ、実家を離れた日の記憶からすっぽり抜け落ちている。
スーツケース一つを、迎えの車のトランクに乗せ、簡単に家族に挨拶をして車に乗ったと思う。そして、出発した後、少し泣いたかもしれない。
Yのお父さんは、仙台の繁華街の雑居ビルの中、上品な小料理屋をやっていた。震災で、経営していくのが難しくなり、店を畳んで、近いうちに家族で東京の家に引っ越すのだといった。
津波と離れたところでも、人生が、震災によって変わっていくことを、感じた。
Yの母方の実家は、墨田区の下町にあった。昔ながらの住宅地の中にYの祖父母が暮らしていて、2階と3階がほぼ空いているのでそのうちの一部屋をYと一緒に使わせてもらうことになった。
6畳の畳の部屋に、2人分の布団と、2人分のスーツケースを置いたら、ほとんど埋まってしまった。
暫くは、近くを散歩したり、もんじゃ焼きのお店に連れて行ってもらったりした。
数日後に、私の進学先の大学でも、入学式が1ヶ月延期されることが決定したため、さらに私は途方に暮れた。
被害の報道が落ち着くと、自粛ムードと不謹慎バッシングが世間を騒がせるようになっていた。わたしはどこか他人事でその騒ぎを見ていた。先頭きって騒いでるのは「被災者じゃない人たち」のような気がしたから。
その頃から私は、mixiやTwitterのSNSの類を始めた。Yが大学に通い始め、初めのうちは知らない街を歩くのも楽しかったが、私は思い切った買い物もできなければ、ウィンドーショッピング以外での1人遊びの方法も分からなかったので、ずっと本屋で本を眺めたり、カフェで本を読んだりして過ごすようになっていた。
そういえば初めて化粧をしたのはこの時期だった。薬局に行って、もらったお小遣いで化粧品を買うことに少し罪悪感を覚えた。

同級生たちがやっているというSNSを始めると、一気に世界がひらけた。地元や他の地域に進学した友人と繋がったり、同じ進学先に進む人たちと繋がったり、同じ震災を経験した人と繋がったり、不謹慎なことを言って炎上する人、言葉の揚げ足を取る人たちを見たりもした。
mixiのコミュニティという機能で、同じ大学の学部に進学する人たちの懇親会があることを知った。誰も知り合いがいないところだったが、みんなそういう状態で集まるんだからなんとかなるだろうと思い、参加することにした。
行ってみたら、想像と違った。
カフェのような明るいところで開かれると思っていたが、半地下の薄暗いピザ屋でだった。受付にいる女の子は綺麗なワンピースを着て小慣れたお化粧をして、いかにも何回目かのパーティーですという手慣れた手つきで、一人一人スマホの申込画面を確認して、お金をもらい、ドリンクチケットと名札を渡していた。
あの、紙のリストバンドをつけたことがなく、ちょっと手間取るのも恥ずかしかった。
恥ずかしがっているのがバレたらさらに恥ずかしいと思って、いかにもつまんないという顔を作っていた。
パーティーにいたのは、都内の中高一貫の高校から進学する人たちが殆どで、既に高校の時から友人同士の人や、塾で一緒だった人、SNSで既に知り合って何回か話してる人たちばかりらしかった。私がついた頃にはみんな固まってグループ同士の交流をしていた。
でもそういう人たちは、私のような一人ぼっちをほっとくのではなく、積極的に声をかけてくれた。「ねぇ、1人?えーすごい!一緒に話さない?」1人ぼっちのひとに話しかけるのに躊躇いがなく、慣れているようにも感じた。
綺麗な格好をした女の子の集団に声をかけられて輪の中に入れてもらった。
一人一人が改めて自己紹介で名前と高校名と進学先の学科名を言う。東京の一貫校に通っている子が多いから、出身地ではなく高校名を言うのだと気付いたのは3人目くらいだった。私は知らない高校を、みんなは「え!近いね○○駅でしょ?」と話している。
私の高校名はきっと伝わらないと思い、「えっと…仙台出身です」という。そうすると、一瞬空気がピリッとする。
それまでキャッキャしていた空気がスウっと落ち着き「え…地震大丈夫だった?」とさっきと違うトーンで私に聞いてきてくれた。
途端に「仙台(東北)出身」が「被災者」の代名詞みたいになっていることに気づいた。そして目の前の人たちにとって「被災者」が唐突に現れた時に「震災」に触れることが礼儀だと思っているようだった。
正直、不自然ではなかった。わたしも、何も触れられなければ、とても関心が低い人たちなのだなと残念な気持ちになってしまっただろう。
でも重い空気になったことも、すごく申し訳なく感じて
「ウチは内陸の方だから!少しライフライン止まったけど、大丈夫だったよ!」
と努めて明るく返した。そうするとみんなも良かった〜と言ってそれ以上その話題を続けようとはしなかった。
ちょっとした違和感を感じながらもそんな対応を繰り返して、いろんなグループを渡り歩いた。中には同じく地方出身だという子もいたが、東北の方だというと同じような反応をされた。
結局、そこで連絡先を交換したほとんどの人と、卒業する頃には話さなくなっていたが、唯一、トイレ近くの壁際で休憩した時に、同じく1人で壁際にいた子と仲良くなり、一緒に大学時代を過ごすことになった。仙台出身だと話した時にその子が、「大丈夫…かどうかという話じゃないと思うけど…会えてうれしい」と笑ってくれたことが、とても嬉しかった。

その後入学しても、出身地を自己紹介で話しては「地震大丈夫だった?」という質問に応え続けた。
基本的には津波の影響はなかったので大丈夫だった、と話し、その話を終わらせた。
でもこのやり取りを繰り返すたびに、違和感は積もっていった。

大丈夫ってなんだ?
大丈夫か大丈夫じゃないかでいったら、私は元気に東京の大学に入学できている時点で大丈夫な方だけど…
このひとたちは何も想像せずに「大丈夫」かどうか聞いているのか?いや、そうではない人も多いだろう、でも他に言葉が見つからないのだろう。
でも、私になんて言って欲しいのか…?
初対面で大丈夫じゃなさを吐露できるわけもないのに、大丈夫かどうかを聞くのは乱暴では…?

幸い、というかなんというか、私が入学した社会学部の一年のテーマが震災になったことで、それに関わる本や社会学の講義をたくさん聞くことができた。
学問として震災を捉えるなかで、「大丈夫?」という問いかけは、「how are you?」という意味と変換するようになり、違和感の苦しさから目を背けた。また、学問としてそれらの知識を手に入れるたび、自分の経験をかなり遠くから眺めなければならず、他人事みたいに考えなければ、邪魔な私見がゴロゴロと雪崩れ込んでくるのを無視し続けなければ、冷静に考えることができなかった。
でも、自分の辛さや悲しみとこの時にちゃんと向き合っていれば、と思う。社会学にできることを、その時はちゃんとは理解していなかった。

この違和感を感じ、経験を学問として処理していく過程までが大学一年の前期に、自分の中でやったことだった。
一緒に上京してきた友人や全然知らない大勢の人たちが、東北のボランティアに次々に行き、私が知らない被災地のその後をきちんと目で見て悲しみ、手を動かして何かしら復興に向けての手助けをしていた。私は違和感やなだれ込む感情から逃げるために本を読み、「地震大丈夫だった?」を「how are you?」に変換し続けた。

記憶の記述(それから)

< 2024年東京にて >

この文章を読んだうちの、いったい何人が、こんな中途半端な経験と文章力の記録のこんなに長い文章を読むというのだろう…

ともあれ、そうして逃げ続けた延長に、これまで私は立っていた。
研究室に入り、震災について考える機会が与えられても、
親から震災のドキュメンタリー映像のDVDが送られても、
ドキュメンタリー映画制作のインターンで、震災の話を聞いても、
東京から仙台の会社へ転職をして、同僚が震災直後に地元の企業の悲しい現実に寄り添った話を聞いても
映画「Fukushima50」を観ても、
私は、頷きながら、時に涙を流しながら、自分はどこにいるのか分からずにいた。

どこにいるのか分からないことと、
行動を起こせないことは、別物だ。
自分の感情や立場を定義できないことを
あの時何も行動できなかったことの言い訳にしようとしては、その因果を否定し続けてきた。

「狭間」という「立ち位置」を無理矢理自分にとって都合よく解釈して、自分勝手に苦しんできた。
そこに何の意味もない。
私が今持てるのは、故郷のために何もできなかったという後悔の念と、この記憶を捨てないという意思だけだ。

せめて私が人より持ち合わせているであろう情緒をもって、忘れないでいることが、いつか何かの意味をなすかもしれないと期待したい。

13年経って、この記憶を記しそっと外に出すことが
せめて自分にとって意味があることを祈って、
この駄文を閉じます。

もし読んでくれた人がいたら
ありがとうございました。

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