【思考】「人それぞれ」という結論が嫌い
個人的にはどんなにくだらない事でも、議論をする時間というものは尊いと思うし、なんなら好きだったりする。
その内容が自分にとって都合の良いものでなくても、否定的な意見であっても、個人が思ったり感じたりしている事を忌憚なく話せる機会は誰にとっても有意義だろう。
なお、ここでの議論の定義は「テーマをもって話し、一定の結論を出す事」とする。
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人が結論を求めて話をする機会は星の数ほどあり、その数と同じだけ結論が出ていることになる。
しかし、その結論を「議論の結果」として捉えて良いのは正しい議論をしたときに限ると思う。
例えば、自分の立場や年齢を根拠として、周りを説き伏せるやり方などでは忌憚のない個人の意見を抑圧するほか、そもそも人の話を聞く気が無いので間違った議論と言える。
議論という民主的なスタンスをとったワンマン管理職などがよくやりがちな手法だろう。
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そんな間違った議論の中でも私が特に嫌いなのが「人それぞれ」で締めくくる結論だ。議論の途中で浮上してきても腹が立つ。
私が差別主義者で、人の多様性を認めない人間だからではない。
ただの日常会話でさえも「個人の思考」を基に進められていくものであり、そもそも「人それぞれ」なんてものは大前提だ。
結論を出す為に話していることの結論に、ただの前提を持ち出す愚者は思考の放棄をしていることに外ならない。
にも拘わらず「私は本質を捉えていて達観している」みたいなスタンスで議論に参加する。
私が稚拙なだけなのかもしれないが、これがどうもダメだ。
しかし、これは老若男女問わず幅広く使われているほど汎用性が高いワードであり、ある程度の頻度で直面する。
その時点で建設的な議論は諦めることで精神衛生を保っているが、びっくりする位時間の無駄を感じてしまう。
愚痴っぽくなってしまったが、議論や会話をする際には目的意識をもって臨む意識を持てるようになったため、そういう存在が反面教師に一躍買っていることも事実だ。
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