自分らしさ、という言葉の怪しさについて

「自分らしく生きたい」「自分らしさって大事だよね」
うんうん、私もそう思うよ。

「自分らしく生きよ」
そうだよね、自分らしく生きれないと嫌だよね。

でも、ちょっと待って。
一旦立ち止まってみようじゃない。

「自分らしさ」って何?
…うーん、まあとりあえずググってみようか、、

と、なってはいけない笑
自分の頭で考えることを手放したらよくないと思うから。

私が思うに、「自分らしさ」って、自分の内を自分で覗き込んで自分に教えてもらうものじゃない。

過去に、いろんな人が「自分らしさ」について色んなことを言うのを聞いてきた。

ある哲学研究者は、「自分らしさ」を"選択"という観点から捉え、

「自分らしさ」とは、今までの人生で自分の意志で"選択してきた出来事の積み重ね"だ

と言った。

ふむ、一理ある。 

次に、"意味づけ"という観点からみると、

自分がこの世界に与えた意味や、逆に世界や他者の側から与えられた意味をまとめたもの

とも言えるかもしれない。
ちなみに、一月末くらいまで、私はこの解釈を採用していた笑

しかし、今日とあるラジオで面白い解釈を知ったので、きいてほしい。

とある哲学者とミュージシャンがラジオで話していたのは、

「自分らしさ」とは、"選択"や"意味づけ"によって決まるというより、

「自分の中に、何を受け入れていたか」を言語化したものであり、
「何が、自分という媒質の中にやってきて、とどまっている(た)のか」を知ることだ

と。

つまり、自分が何を選び取りに行ったかという能動性に注目するのではなく、
自分の中に何がはいってくることを受け入れていたかという受動性に注目しているのだ。

鋭い、と思った。

人間、自分が自由に選び取れる環境で生きている(く)んじゃないからね。


とまあ、つらつらと書いてきました。

最後にまとめ的なことを書くとすれば、
「自分らしさ」は、自分の内を眺めてみつかるものではなく、
「外の世界や他者とどう関わったのか」
を見ることでしか、分からないということですね。

それでは今日はここまで👋

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?