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歴史の地、イランから

阿部 克彦
経営学部・美術史、イスラーム美術史


 みなさんは、中東というとどのようなイメージを持つだろうか。戦争や難民などのニュースが届く一方で、産油国やオイルマネーを原資とするドバイなどの都市の繁栄ぶりはよく知られているとおりである。ところが、このような多様な顔を持つ中東地域でもよく知られていない国としてイランが挙げられる。欧米中心のメディア報道によってとかく否定的なイメージが浸透しているイランではあるが、かつてはペルシャと呼ばれ、長い歴史と豊かな文化をもち、日本でも高級品として名高いペルシャ絨毯が生産されている国でもある。
 私は、このイランの美術や文化を研究対象として度々現地を訪れているが、2018年にこのイラン北西部と、イランと国境を接するアゼルバイジャンのナヒチェヴァーン地方を調査目的で訪れた。この時のようすをレポートしながら、この地域の過去の歴史と、それが現代とどのようにつながっているのかを考えた。
 この旅では、イランの北西部のアルダビール、タブリーズ、そしてさらに今回は、その更に北のアゼルバイジャン共和国に属するナヒチェヴァーン地方まで足を伸ばした。目的は、16世紀から18世紀の初頭までイランを支配した王朝であるサファヴィー朝にとって重要な歴史的・地理的拠点であり、また当時の経済に大きく寄与したアルメニア人の拠点を実際に訪れ、文献や記録にその名称が残されている場所を実地調査することであった。
 はじめに訪れたアルダビールは、地図上はカスピ海に近いものの、イラン全土を概ね含むイラン高原の一端に位置しているため、乾燥した山岳地帯に築かれた古都である。ここには、シェイフ・サフィー・アッディーンという16世紀初頭に成立したサファヴィー朝という王朝の始祖を祀る霊廟があり、2010年に世界遺産に認定されている。

シェイフ・サフィー・アッディーン廟、チーニー・ハーネ(中国陶磁の家)内部

 また、この王朝がイスラームのシーア派を採用したことにより、以降現代にいたるまでイランの国教となっている。訪れた時期は、シーア派にとっては重要な宗教行事が行われるムハッラム月にあたり、次に訪れたタブリーズでも街中に旗などで飾られていた。

タブリーズ市内、ムハッラム月の旗飾り

 タブリーズは、数多くの王朝がここを都として定め、古来より交易によって栄えてきた都市である。歴史的遺構も多いが、現代でもイラン第2の大都市であるため、その大部分は地中に埋まったままである。モンゴルの侵攻後に成立したイルハン朝の都だったが、その主要な遺跡は今も大部分が未発掘のまま中心部に残されている。また中心部には、「タブリーズの歴史的バザール複合体」として世界遺産に認定された、レンガ造りのアーチが見事な大バザール(市場・商業地区)がある。この周辺は、日が落ちて涼しくなると散策の人々で賑わう地区でもある。

タブリーズの大バーザール
夜になると人々が散策に繰り出す タブリーズ市内

 ここからさらに北西部のアゼルバイジャンとの国境に向けて車を走らせると、かつてはアルメニア人の居住地であった地域に入る。ここには今でもアルメニア正教会の修道院や教会堂が残されており、そのうちのいくつかがユネスコの世界文化遺産に指定されている。イスラームの国として知られるイランであるが、じつは今もアルメニア人などのキリスト教徒の住民も多く暮らしており、このようなキリスト教関連の歴史的に重要な教会も積極的に修復・保存されている。

聖ステファノス修道院

 その後は、アゼルバイジャンとの国境近くの町ジョルファ(ジュルファ)を目指した。この街はかつてこの地域のアルメニア人の主要な居住地の一つであり、文献上も知られる交易の一大拠点であった。北のアゼルバイジャンとの国境線となるアラス河畔には、今も崩れた橋やキャラバンサライ(隊商宿)が残されているが、かつての繁栄の痕跡はほとんど見られない。

ジョルファー、アラス河畔の橋遺跡、向こう岸はアゼルバイジャーン領

 それは、16世紀末からイランのアッバース1世がこの地を征服し、地域に居住するアルメニア人たちを集団で強制移住させたことが主な原因である。アルメニア人は古代からキリスト教を受け入れ、交易を生業とした商業民族でもあったため、その後イランのみならず、西は隣国のオスマン帝国領のシリアや都のイスタンブル、そしてベネチア、ロンドン、アムステルダムなどにも拠点をもち、東はインドのムガル帝国から東南アジア、中国までに至るインド洋交易にも進出した。中東には、歴史の表にはなかなか出ることのないこのようなアジアからヨーロッパを股にかけて商業ネットワークを築いたいくつもの少数民族が活躍し、経済や文化面で大きな役割を果たしていたのである。
 このジョルファのアラス川にかけられた現代の橋の中央が国境線となっており、イラン側の出国手続きを終えて徒歩で渡ると、そこはナヒチェヴァーンである。ナヒチェヴァーン自治共和国は、アゼルバイジャン共和国の一部であるが、隣国のアルメニアを間にはさんだ飛び地となっている。この地域は長年アルメニアとアゼルバイジャンとの間に領土と住民をめぐる紛争が繰り返されており、ここから東方のナゴルノ=カラバフをめぐって両国間で緊張が続いている地方でもある。しかし市内に入ると、公園の中にはチャーイ(茶)や菓子を提供する店があり、人々の穏やかな日常の生活を見ることができる。

ナヒチェヴァーン市内のチャーイ・ハーネ

 今回の旅のように、歴史が複合的かつ重層的に蓄積された地域を訪れることにより、その地で起きた歴史上の出来事を身近に感じつつ、それが現代に生きる我々の今とも連綿と密接に連続していることに気づかされるのである。

阿部 克彦
経営学部・美術史、イスラーム美術史

『学問への誘い』は神奈川大学に入学された新入生に向けて、大学と学問の魅力を伝えるために各学部の先生方に執筆して頂いています。