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オンライン授業を経験した大学教員が考える、「雑談」のすすめ

国際日本学部 国際文化交流学科
教授 熊谷 謙介(フランス文化・文学 多文化共生論)

今期の大学はオンライン授業。教員も学生も慣れない環境の中で、にわかyoutuber(?)になる教員や、課題の多さに悲鳴をあげる学生たちなど、さまざまな悲喜劇が演じられています。

私が所属する国際日本学部は2020年4月に発足した新しい学部です。入学生を迎えるにあたって突然のオンライン授業となり、突き当たったのは、授業の質の確保だけでなく、学生どうしの交流という問題でした。

そう、大学は授業をするだけでなく、サークルなどの多くの課外活動、さらにはそのようにも可視化されない、他愛もないおしゃべりができる場なのだと思います。

「交流」できない国際文化交流学科?

今年度、私は国際日本学部・国際文化交流学科のとりまとめを担当しています。全国の大学でも珍しい、「交流」という名前がつく学科にあって、「交流」できないという事態は何事か――、授業期間が始まる前に、Zoomで履修相談会をしたり、LINEのオープンチャットで情報交換をする場所を作ったりはしましたが、まだまだ「雑談」できるような場所ではないような、もどかしさを感じていました。

そもそも「雑談」できる場所とは、どんな場所なのでしょうか? まずはことばを、深い意味を求められることもなく、また権力ある者にチェックされない形で、自由に発することができる場所のように思います。

Zoomは会議用ツールとして作られたこともあり、上からの伝達や各メンバーの意見の表明には向いているものの、「さもない」言葉を交わし合うには、そのままでは使いにくいものです。「特別に言うことがない」人はミュートにして、「言うことがある」人の発言を聞く――、これが基本設計のように思います。これでは会議的なコミュニケーションしか成立しません。その余白を埋めるのが、ちょっとしたことを書きとめられる「チャット」ですが、どうしても、本流とは別の、脇道のコミュニケーションになってしまいます。

先ほど、「権力ある者にチェックされない」と書きました。しかし大学の中で、とくに学生にとって権力ある者といえば……、私、つまり「先生」になってしまいます。授業はその権力構造を利用して、教員は任務を指示し、学生はそれを実行していくという「プレイ」をするのが古式ゆかしいやり方であり、私自身、このモデルの有効性は一概に否定できないように思います。

一方で、雑談に教員はいない方がよいことは確かです。授業後に、教室でただただ「だべって」いる学生たちの話に、教員が耳をそば立てていたらいやでしょう。

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先生は消えた方がよい?

ともあれ、このような「放課後」をオンラインでどのように実現させるのか。もちろん、理想は学生たちが「勝手に」やってくれるのがよいのですが、すでに関係性が確立している在学生ならともかく、新入生がそれを一からするのは大変です。オンラインという状況では、関係をある程度は維持することができても、新しい世界に入ろうという人たちは、LINE交換もままならず、SNSで公開アカウントを作るなど、「つながる」ために大変な一歩を踏み出さなければなりません。

Zoomにはブレイクアウトルームという機能があり、学生たちを小部屋に入れて、主催者がいるメインの部屋とは別の部屋で話をさせることができます。ふつうは、その小部屋を何部屋も作って、グループ・ディスカッションをさせるのですが、一度、実験として、ゼミの授業後にzoomを開けっ放しにしておいて、全員をブレイクアウトルーム1室に入れて自主解散としました。その結果、けっこう盛り上がって、長く話していることに気づき、そうか、やはり自分が消えればよかったんだな(笑)という思いを強くしました。「けっこう盛り上がって」と書きましたが、ホストである私には会話は聞こえないので、本当は盛り上がっていないのかもしれません。

これは、実は会議の場でも必要なことなのではないでしょうか。会議の前でも後でも、ちょっとおしゃべりするのが実り多い、いや実りがあろうがなかろうが、面白いところだと思います。zoom会議が終わった後、主催者がすぐにミーティングルームを終了してしまうと、一人取り残され終了画面を見つめる自分がいる――、こんな経験をした人もいると思います。

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偶然の出会いがよどみをなくす

それで、国際文化交流学科の新入生には、週1回の昼休みにzoomを開放するようにしました。先生として相談にのるわけでも特別な話をするわけでもなく、学生たちでおしゃべりなど、好きに使ってもらうためです。毎回、全学科生の4分の1にあたる学生がくるので、先ほどのブレイクアウトルーム機能を使って、ランダムに5人ぐらいに分けて小部屋を作るようにしています。

そうなるとその都度違うメンバーとおしゃべりをすることになります。昼休みに2,3回組み換えをするので、固定メンバーで話すことはできません。「それで満足なのか?」「話したことがない人と話をするのを不安に思わないのか?」とも思っていたのですが、参加者数は安定しているので、毎回違う人と話ができることに、学生はむしろポジティブな要素を感じているのかもしれません。

実際の教室であれば、仲が良い人たちと固まっていくのが常です。私はフランス語を教えていますが、対面式の授業では、会話の練習などで自由にペアやグループを作らせると、どうしても固定メンバーになってしまいます。固まることは、つるむことでもあって、「交流」が文字通り、人や言葉の「流れ」であるなら、それがいつのまにか決まった道筋の流れになって、ある時には「よどみ」を生んでしまうこともあります。

しかし、オンラインという技術的限界が生み出すランダムネス(偶然性)は、このようなおきまりの「流れ」をかき乱し、多様なものどうしを結び付ける可能性があります。気の合う人を見つけたいというのはあるにしても、偶然の出会いに身をゆだねるのも悪くない、と学生たちは考えているのでしょうか。

サイバーOC写真

2020サイバー・オープンキャンパス 国際文化交流学科紹介動画より

交流は「読めない」から面白い

国際文化交流学科という「交流」を看板にしている学科として、こうした開放性をもっている学生を、本当に心強く思っています。「国際文化交流」というと想像してしまうような、国と国の代表者が握手しているような姿、あるいは「クール・ジャパン」と称して「ウケる」と計算された文化=商品をアピールする姿…。しかし、交流の本当に面白いところは、期待や型通りのイメージに反して、不意に訪れるような「何か」なのではないでしょうか。そして、こうした不意打ちを受け止めるには、偶然性に開かれ、しなやかに対応できるような姿勢こそ必要でしょう。

このような状況が今後どうなるかは分かりません。それでも、この不可思議な環境の中で、ふだんであれば出会えなかった人と出会えたことを面白がってもらいたい。これが「先生が消える」教育であり、教員がいない以上、実際に何が起きているのかは分からない、教育的効果があるかどうかも分からない、エビデンスのない「教育」なのではないでしょうか。