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考えを深め、理解を高める力を持ち、人と協働する|上田 渉

上田 渉
工学部教授・触媒物質化学

今の学生は勉強が大変だ。今時の学生の学力がどうの、こうのと言っているのではない。

学ぶことがどんどん増え、十分に追いつけなくなっている状況を言っている。むしろ多くの学生は科学の最先端からどんどん取り残されつつある。

しかし、これは至極当然のことで、広い意味での科学(学問)は自ら進展する特性をもつため、日々新しい領域が生み出され、それに伴って学術と技術がどんどん発展し、広がり、高度化するためである。
したがって、学生に限らず、大学教授も含め全ての人が大変なのである。何かに絞ればなんとかなるが、一人で何でもかんでも、というのはもう無理である。何かをするには、勉強よりも人の助けの方が重要で、人との協働が欠かせなくなっている。

それでも、学生はひたすら勉強しようとする。また、勉強しないといけないと思っているようだ。本書の書名である「学問への誘い」などと言って勉強が誘導されるからそうなるのではないか。
学問がわかり、学問をするのはとてつもない時間と努力が必要で、「面白いよ」、「そう、じゃやってみる」のような手合いのものではない。
きっぱりそう言うべきであろう。

そうでないとただいたずらに知識を雑駁(ざっぱく)に吸収するような、つまらない作業に終始することになりかねない。知識を得ることはけっして無駄ではなし、必要な時期もあるが、多くの学生は深く考えず、知識吸収の勉強に汲々(きゅうきゅう)としているように見える。

現代では、知識の集約はAI (ArtificialIntelligence)がいともたやすくやってのけ、一部の分野では人間を明らかにうわまわっているので、下手な勉強は休むに似たり、である。学問などという領域に踏み込むのは限られた人だけにして、むしろ応用する、展開する、利用する力を得た方が余程良い。それでも大変である。実際のところ、現代科学は複雑化していて、学理を超えた中で技術が成立することがあるのも現実で、技術を生み出す力の方がより重要になってきている。

別の言い方をするならば、人、ここでは学生、はそれぞれなので、色々な勉強の仕方があってよく、また色々な方向の勉強があってよいのだ。また、勉強のきっかけも大それたものでなくてもかまわない。

むしろ今の大学の教育の仕方が画一的すぎるのが良くないので、学生は従順にならない方が賢明。大学側としては、学習教科を学年ごとに設定するのではなく、学生が勉強したい内容を自分で選ばせ、最終的に要件を満足すれば良いようにしたらよい。ただし、どう勉強するかはよく考えておかなくてはいけない。

どう勉強するかについて、私が大学生になった頃を振り返って考えてみる。その頃はどの大学も入学から1、2年は教養の期間で、専門的な勉強はほとんどなく、まさに教養的な科目を履修すればよかった。初年度から専門を勉強する今の大学とは大違いである。

心理学や哲学、そして語学や数学と、学のつく講義が目白押しで、どれを取ってもよかったが、受験勉強からの開放感からか、最小限にした。ほとんどの講義はどのようであったか全く記憶なく、何かの糧になった印象は全くない。つまりその程度の勉強であったのだ。

ただ、数学は少し記憶している。物事を論理的に厳密に理解するプロセスに衝撃を受けたからである。それは、数学の講義の最初の頃に出てきた「デデキントの切断」と言うもので、この言葉は今でも頭に残っている。デデキントの切断は実数の連続性を定義する重要な定理を導く。この勉強で、実数の連続性など至極当然のように短絡的に思ってしまう単純思考が整然とした論理を通して定義するプロセスによって打ち砕かれた。高校で学んだ、いや記憶した有理数や無理数は単なる知識のレベルにすぎないが、論理で構築された深い思考はあまりにも強く、高い理解を導いてくれた。

これは数学の分野にとどまらない。どの分野でも、事象を深く考え、高い理解に持ってくる行為で得たものは決して時間がたっても褪せることはないし、広く応用ができる。また、全く新たな局面に遭遇した時でも、論理的な深い思考をすれば必ずある一定の、かつ意味のある理解を生み出してくれるし、この努力は新たな理解、新たな展開や発見を生む原動力ともなる。

これこそが大学で行うべき勉強の型である。がむしゃらに何でもかんでも勉強して、色々記憶する必要はない。何かを記憶しても、これを論理的に使えなければ意味がないのだから。

どうも、小生は記憶力が明らかに他の人より弱いので、記憶よりも理解度を優先する方向に話を持って行こうするきらいがあるが、深い思考の末の理解は簡単には忘れない、という点は受け入れてもらえるであろう。

囲碁のプロ棋士は試合後、碁石をスラスラと並べることができる。棋士の記憶力が高いのはもちろんであるが、碁を打っているときにどう打つべきかいろいろ考え、その結論として碁石の位置を決めているので、再度碁石を並べるのは思考の過程を再現することと同じで、間違えることなくスラスラできる。深い思考の結果が再現されているのである。

ここまでで、論理を持って深く思考し、高い理解を得ることの意義はわかってもらえたと思うが、そうするのは簡単ではないし、必ずしもできるとも限らない、と思う学生もいるでしょう。確かそうかもしれないので、なんらかの方法は必要であろう。専門の勉強の中で鍛えるのも一つの方策であるが、日本語以外の語学の勉強が意外とよい。日本語だとどうしても曖昧さが避けられないが、英語のように文法がしっかりしていて、紛れが少ない言語は論理的思考をするうえで大変役に立つ。学術論文のほとんどが英語で書かれる一つの理由がこれである。

英語ができて、論理的思考ができて、英語で人とのコミュニケーションができれば、もうOKである。勉強は少しで良い。でも高い理解を求める行為はしっかり続け、あとは、何でもかんでもしようとしないで人の協力を得れば良い。現代は、社会という組織、国を超えた組織の連携と協調があるからなんとかなっていると言えるので、どんどん協働すればよい。

上田 渉
工学部教授・触媒物質化学

この連載では最新の『学問への誘い 2020』からご紹介していきます。