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「良い」という語の謂について

 「いい」という語にかれこれ二十年以上悩まされている。一体この語の品詞は何であるのか……

 普通教育の知識の残滓が辛うじて脳みその襞のどこかにへばりついている善良な一般市民であれば、俺の疑問にただちにこう答えを返してくれるだろう。

 「〜い」で終わる語なのだから、形容詞でしょう、と。

 一方で、現代語の形容詞の活用表が「かろ、かっ・く、い、い、けれ、◯」であったことを未だに記憶している変態どもは、ははーん、なるほど、と俺の言いたいことを汲み取ってくれるであろう。

 そう、「いい」という語はどうみても形容詞のような面構えをしているのに、決して形容詞のように活用してくれないのである。

 形容詞の活用表のような生活の便益に全く寄与しない知識のために貴重な脳細胞の一部を活用している酔狂な人間のことは放置するとして、標準的な文法解説をしておくと、形容詞とは用言であるから活用する。

 活用て何だっけ、と難しく考える必要はない。形容詞であれば、「ない」をつければ「〜く」と、「た」をつければ「〜かっ」とその姿を変える。

楽しい→楽しくない、楽しかった
面白い→面白くない、面白かった
強い→強くない、強かった
美しい→美しくない、美しかった
よい→よくない、よかった

 規則は明瞭であろう。形容詞であれば、最後の「い」を取っ払って、「〜く」「〜かっ」とすれば「ない」と「た」につなげることができる。

 しかし、「いい」はそれができない。

いい→いくない、いかった

 圧倒的な違和感である。法則とずれるが、「いい」のあとに「く」「かっ」を付与する形で、

いい→いいくない、いいかった

 とすれば辛うじて意味は分かるが、明らかに自然な日本語ではない。

 ものすごく気持ち悪い。

 なにが気持ち悪いかって、「いい」が活用できないことではなく、「いい」でなければ、デタラメな形容詞でも活用できるところにある。

 「いい」が「よい」に比べて若干「乱れた」感のある語であるのは確かなことだが、「エモい」「テクい」「チルい」といった新生語に比べればそれほど「乱れた」印象はないだろう。にもかかわらず、

エモい→エモくない、エモかった
テクい→テクくない、テクかった
チルい→チルくない、チルかった

と、活用させても意味が通じてしまう。

 それどころではない。文法的に誤っていてもこの活用は機能する。

 「きれいだ」という語は「豊かだ」とか「幸せだ」と同じ形容動詞というやつで、本来は

きれいだ→きれいでない、きれいだった

と活用するのだが、「きれい」の「い」の音が形容詞であるかのような錯覚を生じさせたのか、

きれい→きれいくない、きれいかった
あるいは
きれい→きれくない、きれかった

 いずれも正当な文法でないのは明白だが、「いくない」や「いかった」に比べれば違和感は少ない。

 「これがいい」「いい話だなー」などと、活用さえしなければごく自然に使えるのになんとも奇妙な話ではないか。


 さて、ここまでの論考を読み、なるほど、「いい」というのは文法的に誤った日本語であり、「よい」が正しい日本語なのだな。今度からは「いい」とは言わずに「よい」と言うようにしよう、と考えた折り目正しい人もいるかもしれない。

 しかし、ことはそう単純ではないのだ。

 ここで我々は「いいね」という語句について考えなければならない。

「よいね」と「いいね」では語感が全く変わってしまう。

 各種SNSの高評価は「いいね」だからこそ気軽に押せるのであって、「よいね」ではずいぶんと権柄尽くな印象になる。

 「この味がいいね」だからこそサラダ記念日に相応しい爽やかさが生まれるのであって、

 「この味がよいね」ではまるで中尾彬であって、爽やかさからは程遠い。これならいっそ史実通りのカレー味の唐揚げでよかったかもしれない。


 もはや我々は「いい」を使わずには構築できない表現世界の中に生きているのに、未だに我々の精神はこの語の活用を受け入れないでいる。いいかげんにしてほしい。

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