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太宰治のお墓参りをした

 太宰治は学生時代から好きな小説家だ。最初は教科書に載っていたので「走れメロス」を読んだ。考えてみると、太宰の作品でも一番「健全」だからこそ教科書に取り上げられたのだろう。
 その後、読んだ「人間失格」や「斜陽」は明らかに教科書にはなじまない。でもいやそれゆえ、私は好きだった。

 朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
 「あ」
 と幽(かす)かな叫び声をお挙げになった。
 「髪の毛?」
 スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
 「いいえ」

 そう、言わずと知れた「斜陽」の書き出しだ。
 愛人治子の日記をもとに書かれた小説だ。
 この書き出しが大好きだ。何とも言えない気品がある。
 そしてこれから始まる騒ぎを感じさせる静けさ。

 そして「ヴィヨンの妻」。この作品は、私が父が亡くなる前、最後に会った時に「ぜひ読め」と勧められた太宰の作品だ。
 父はいわゆる「火宅の人」だった。家庭人としては明らかに失格だった。
 「ヴィヨンの妻」も夫婦の物語である。夫は遊び歩き、よく分からない嘘で固めたような人物。健気な妻。
 私は読んではみたものの父が伝えたかったことがいまだにはっきりとわからずにいる。再読を重ねることで分かるかどうかも分からない。

 その太宰治の命日6月19日を控えた2024年6月6日(水)、東京・三鷹の禅林寺を訪れてお墓参りをした。
 1948年6月13日、太宰は愛人・山崎富栄と玉川上水で入水自殺をした。太宰は享年39。遺体が上がったのは6日後の6月19日だった。
 くしくもこの日は太宰の誕生日だったため、偲ぶ日となった。「桜桃忌」あるいは「太宰治忌」といわれている。
 かつては禅林寺で法要が行われてファンが大挙押しかけて太宰を偲んでいたが、今は特に何もしていないという(禅林寺)。
 JR三鷹駅南口を出て中央通りを南に真っすぐ進む。15分ほどして大きな通りを右折すると右手に禅林寺が見えてくる。

禅林寺正面 
禅林寺山門 

 正面から入ってまっすぐ進み、左手の奥に入り口がある墓所のさらに奥まったところに津島家の墓がある。太宰の本名は津島修治である。津島家の墓の右に太宰治と彫られた墓石がある。

津島家の墓など

 太宰の墓の斜め前には文豪・森鴎外の墓がある。「舞姫」などの作品で知られる。軍医でもある森鴎外の本名・森林太郎と彫られている。 

森鴎外の墓

 太宰治は1909(明治42)年6月19日、青森県北津軽郡金木村に生まれた。11人兄弟・姉妹の六男だった。
 1912(明治45)年、父、源右衛門は多額の納税者として貴族院議員に選出される。津島家として現・斜陽館を構えた。
 5年後、太宰の乳母が結婚のため津島家を去った。太宰8歳の時だった。その後、祖母に育てられることとなる。
 1923(大正12)年、父が死去。青森県立中学校(現在の青森県立高等学校)入学。作家・井伏鱒二に師事する。
 1925(大正14)年、この頃から作家を志望する。
 1927(昭和2)年、現在の弘前大学に入学。心酔していた芥川龍之介の自殺に衝撃を受ける。花柳界に出入りして義太夫を習う。同級生の芸子・小山初代となじみになる。
 1929(昭和4)年 共産主義に大きな影響を受ける。自分の出身階級に悩み、12月10日、下宿先で多量の睡眠薬カルモチンを服用。
 1930(昭和5)年、東京帝国大学仏文科に入学。井伏鱒二に初めて会い、以後師事する。10月、太宰は小山初代を青森から呼び寄せて同居する。11月、銀座のバーの女給・田部シメ子と心中未遂。鎌倉の海岸で心中するが、女性のみが死亡し、自殺ほう助罪に問われる。執行猶予。


 1935(昭和10)年、鎌倉八幡宮で自殺を図るが紐が切れて失敗。東大中退。芥川賞候補になるが次席だった。
 1937(昭和12)年、内縁の妻:小山初代と水上温泉で心中を図るが未遂に終わる。帰京後、初代と別れる。
 1939(昭和14)年、井伏鱒二の仲人で女学校の教師だった美知子と結婚し、甲府市で新婚生活に入る。秋、三鷹に転居する。
 1941(昭和16)年、長女、園子が生まれる。9月には「斜陽」のモデルとなった太田静子が太宰家を訪問する。太平洋戦争が始まる。
 1944(昭和19)年、作品「津軽」を執筆するため津軽地方を旅行。7月、先妻・小山初代が青島で亡くなる。32歳だった。
 1947(昭和22)年、愛人・太田静子の日記でもある「斜陽」がベストセラーになる。この頃、山崎富栄と知り合う。11月、太宰と静子に女児が誕生、太宰が認知して治子と命名。現在、作家として活動している。
 1948(昭和23)年、持病の肺結核が悪化して、吐血する。「人間失格」を発刊する。6月13日、山崎富栄と玉川上水に入水。妻・美知子宛ての遺書に「あなたを嫌いになって死ぬのではなく、小説を書くことが嫌になったからです」と書いた。4回の自殺未遂から5回目で完遂してしまった。
 (文庫「斜陽」巻末の年表などを参照した)

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