ビートルズの旅(インド編)⑧
ここでせっかくインド北部リシケシュのマハリシの僧院(アシュラム)跡を訪ねたのだから、ここで生まれたビートルズの楽曲たちをおさらいしたい。『White Album』(1968)のなかの約20曲などが創られたそうだ。
まずはどのような創作環境だったのだろう。
参加者は60~100人と証言に幅がある。
ポールは言っていた。「サマーキャンプのような生活だった」。
彼らをマハリシのもとに導くきっかけをつくったジョージの妻パティはマハリシの教えに魅かれていった背景として「親の世代の古い価値観や感情を押し殺すような姿勢は自分とは相いれないと思っていた」ことがあると言った(ポール・サルツマン「The Beatles and India」の序文より)。
パティが説明するところによると、アシュラムにはスウェーデン、イギリス、アメリカ、ドイツ、デンマークと様々な場所から修行に来ていた。
ビートルズの4人はそれぞれのパートナーを連れ添っており、他には女優のミア・ファロー、彼女の弟のジョンと妹のプルーデンス、英国のフォーク歌手ドノヴァン、ビーチボーイズのマイク・ラブらがいた。
リシケシュの朝は早かった。7時から8時には起きて、外で朝食。
彼らから「90メートルくらい離れた所にある長いテーブルに座った。プラスティックのテーブル掛けがかかっていて、ジャムの入れ物や、果物の入った皿で押さえてあった。若いインド人の男の子が、たくさんのトーストやコーヒーや紅茶をくれた」(ジョンの妻シンシアの著書「素顔のジョン・レノンー瓦解へのプレリュードー」シンコーミュージック)。
「常に誰かがギターを持っていて、議論や歌が繰り広げられていた。ちょっとした社交場だった」とジョージの妻パティは回想した。
どんな歌を皆は歌っていたのだろうか。
アジョイ・ボース著「インドとビートルズ」によると、黒人霊歌「When the saints go marching in」、オールディーズ「You are my sunshine」、クリスマスキャロル「Jingle Bells」、古いカントリーソング「She'll be coming round the mountain」、ドノヴァンの「Happiness runs」や「Catch the wind」、ボブ・ディランの「Blowing in the wind」、イタリアのオペラ「O Sole Mio」などが歌われていたという。
瞑想修行に関してはジョージとジョンが一番熱心だったという。
ジョンはマハリシが参加した女性に手を出したという噂が流れたことから失望し「Sexy Sadie」という歌を作った。
他のビートルたちも同調して、突如アシュラムを出ることにした。
一切マハリシに弁明の機会を与えなかったという。シンシアは書いた「私は泣きたかった。マハリシはかやぶき屋根の、小さな庇の下に一人で座っていた・・・イエスが12人の弟子に無視されたように、インドの山中で聖書のシーンが繰り返されているような、そんな印象がはっきりした」。
今となってはアップルに入り込んだ自称発明家マジック・アレックスの嘘にみなが騙されていたことが明らかになっている。
ジョージはのちにマハリシに詫びたと言われている。
一方、ジョンはのちに言っている。「瞑想については一切後悔していない。今でも信じているし、時々やっている。インドに行ったのもよかった。インドに行く少し前にヨーコと出会って、滞在中はじっくり考える時間がたくさんあったから、3か月間ひたすら瞑想して考え、帰国してヨーコと恋に落ちた。そこでひとつが終わっていた」。
リシケシュに同行していたシンシアはかわいそうだった。ジョンに相手にされていなかったという。
帰りの飛行機の中でシンシアとジョンの間で「結婚7年目の浮気」についての話が出た時に、ジョンは言ったという「シン、もちろん新しい経験がしたいから(に決まってる)だろ、シン、君って本当に甘ちゃんだよ」。
リンゴは食べ物が合わずに出された食事には手をつけず、持ってきたハインツのビーンズの缶詰を食べていたという。妻のモ―リーンはハエなどに辟易して、二人はすぐにリシケシュを後にした。
だが、リンゴは瞑想の意義は認めており、2009年にマハリシの没後1年を記念してニューヨークで行われた瞑想普及のための「Change begins within」コンサートにポールと共に参加した。
「変化は内面から」ということだ。
そこでポールは「Cosmically conscious」という歌を披露した。
コンサートのハイライトでリンゴたちも参加してみなで大合唱となった。
曲名の意味は「宇宙意識」で、マハリシがそこに到達することこそが瞑想の目的だと説いていた。
その他リシケシュを訪ねて改めて認識したのは:
〇リシケシュは猿が多い。それで生まれたのがジョンの「Everybody's got someting to hide except me and my monkey」ではないか。
〇一方のポールは猿が平気で周りで交尾するのを見て「Why don't we do it in the road?」を書いたという。
〇ガンジス川を見下ろす緑豊かなアシュラムの環境からポールの「Mother Nature's Son」が誕生したのではないか。
〇『White Album』には収録されていないが、ジョンの「Across the Universe」もここで着想を得たらしい。曲中に「ジャイ・グル・デイバ・オム」とあるが、これは尊師をたたえる仲間内の挨拶の言葉。
〇アシュラムに来ていたある男が虎を撃ってきたというのを聞いてジョンの「Happiness is a warm gun」につながったという。今でも虎が現れることがあるというが、人前に出てくる頻度としては象の方が多いらしい。
〇ポールはすでに「Ob-la-di Ob-la-da」のサビの部分を作っていた。ジョンたちと一緒にその部分を繰り返し歌っていたという。
〇ドノヴァンにフィンガー・ピッキング奏法を習ったことで創られたのがポールの「I will」とジョンの「Julila」だと想像される。そのうえ、後者は当時妻シンシアに隠れて連絡を取っていたヨーコの存在が隠されている。「Ocean Child」というのがそう。訳すと「洋子」。
(続く)
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