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自宅で逝くとゆうこと 在宅看取り
最近見た記事がほんとに心に残って、母も自宅で最期を過ごすことができて本当によかったと、本当に在宅医療が受けられることはすばらしく、感謝すべきことだと、また最期の時を思い出して涙が止まらなくなりました。
私達家族が家で母と最期の時を過ごせたことは、たくさんの偶然がかさなったからであって、すべての人が在宅できるかと言うと、そうでもないことは痛感しています。
まず母は骨転移による骨折が数か所におよび、歩行困難でベッドの上で生活することになったことで、家の中を移動するための補助として常に家族が付き添う必要がなかったということ。
次に少し動かしただけでも骨折のリスクがあるため、排尿は管をつけていたということ。
この2つの要素だけでも家族の介護負担は格段に軽減されます。
さらに、これはとても受け入れがたいことですが、残りの命が数ヶ月だとわかっていたこと。
このような言い方はあまりだと思うのですが、終わりのある介護には悔いを残さないために一生懸命になれるのです。
終わりなき介護は、やはり家族にとってはとても大変なことで、こんな生活いつまで続くのだろうと疲弊していってしまうのが現実だと思うのです。
母は自宅で大好きな孫たちに囲まれ、会いにきてくれる色んなお友達とおしゃべりしたり、お茶を飲んだりと、日々すり減っていく命をめいいっぱい使って生きていました。
死と向き合うことはとても怖いことだっただろうと思います。私たちには想像もつかず、寄り添いそばにいてあげることしかできませんでした。
それでも母の表情や食べたいもの、ときどきもらす死が怖いとゆう気持ちをそばで聴いてあげられたこと、いつでもおはようやおやすみが言えること、顔が見られることが私たちにとっては自己満だったとしても幸せなことでした。
そして目の前で死を迎えた瞬間はただただ泣き叫ぶしかできなかったのですが、改めて考えると、病院にいて管に繋がれて延命している母よりも、自然に死を迎えた母を見てなぜかよかったと思いました。
どのように説明したらいいのかわからないし、何がよかったのかもうまく説明ができません。
最期の3日ぐらいはほとんど会話もできず、もう命が尽きるんだなと感じていたのですが、それでも点滴したところで1日命が伸びる程度で、顔や手が浮腫み痰も酷くなる一方だと言われていたので、苦しくないように逝かせてあげたいその一心でした。
たくさんの本を読みました。
母が亡くなったあとに自分たちが何をすべきか見失わないために。まず構えることからはじめました。
自宅で看取るとどのような死の経過を辿るのかを知っているか否かでは大きな違いがあるとも思っていたから。
亡くなることは辛いことですが、知識を入れていたおかげで、適切な時期に姉妹を呼ぶこともできたし、訪問してくださる先生のお陰で、遠方の親戚にも会うことができましたし、亡くなる瞬間にも慌てることなく家族が母のそばに集まることができました。
母本人が自宅で逝くことを望んだとはいえ、本当によかったのかどうかは実際残された家族にはわかりません。
ただ残された時間を家族全員で一生懸命に過ごし、生きたことは私にとって有意義なものになりました。
改めて母には苦しい中、自分も不安しかない中で、私たちに時間をくれたことをとても感謝しています。色々な介護の形がある中で、私たちは最善の方々に出会い、最善の方法で過ごすことができたと思っています。