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「語る」ことの力

「聴く」ことを仕事にしている。

「聴く」というと「問いかける」という行為がまず思い浮かぶ。実際、書店には「聴く力」という触れ込みで、センスが良くて、鋭くて、相手に考えさせるような「問い」について書かれた本が並ぶ。

池上彰さんの言葉を借りるなら「いい質問ですねぇ」と相手に思われるような問いを投げかけられる人=聴ける人、という図式は多くの人の無意識のなかにあるように思う。僕のなかにも。

でも、と同時に思う。
僕は、おばあちゃんのようになりたい。いきなり何を言い出したのかと思うだろう。ちなみにここでいう「おばあちゃん」は概念のとしてのおばあちゃんではなく、僕の祖母のことを具体的に指している。

で、何を言っているのかという質問に答えると、「聴く」と「語る」は2つで1つということだ。

そもそも「聴く」というのは、「語る」人がいて初めて成立する動詞である。「問い」も、この「語る」を生み、促し、手助けしてする手段のひとつにすぎない。「聴いてもらって頭が整理できました!」と言っていただくことがあるが、「聴く」ことはただの触媒。その人は「語る」ことで自分の頭を整理したのだ。「聴く」は、そのきっかけでしかない。最後のドミノは「語る」ことで倒されている。

「語る」ことのパワーはここで語りきれないほど強力だと思う。人ってそもそも自分の話をするのが好きなのは、「語る」ほうに本質的なパワーがあるからなのかもしれない。

でも人は、自分一人で「語る」ことはなかなか難しいようにできている。一人で考えていると、どんどん煮詰まってくるのもそう。「語る」ってすごいんだけど、その価値はひとりではなかなか発揮できないからもどかしい(できる人もなかにはいると思うが)。だから「聴く」って、役に立つ価値があると信じている。

おばあちゃんって、そういう意味で最強だった。
おばあちゃんの前では、こっちは完全にリラックスしている。自然体である。傷つけられる心配もないし、何を話してもいいと思っている。いま風の言葉でいうなら「心理的安全性」そのものである。飾らないTシャツ一枚の自分でいれる。

だから、僕は勝手に「語る」。でもおばあちゃんは小難しい問いを投げかけたりしていない。ただ、そこに「いる」。でも、僕は自然といま話したいことを話している。勝手に。これって究極の「聴く」だよなぁといまなら思う。

だって相手は語っているのだから。
そのままの自分で、いま語りたいことを。

聴かずして、聴く。
そんなおばあちゃんのような聴き手になりたい。
そのためにはスキル云々の前に、僕自身がどんな人間であるか、が問われている。まだまだその道のりは遠く先にかすんでいる。

22/08/06

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